2020年09月22日

榎戸水車

国分寺市内の新田開発の史跡や遺構をご紹介する第4回目は、榎戸水車です。五日市街道を立川市と国分寺市の境から少し国分寺市に進み、カレー店の脇を南側に入ったところを流れる砂川用水にその遺構があります。

水車は、現在は残っていませんが、明治43年に、榎戸家が穀類の精白の営業のために設置したものです。水車が設置されるまでに、文化4年(1807)から3回にわたり申請されましたが認められず、4回目にしてやっと実現したものです。設置には、近隣の水路関係者と水利組合、監督官庁である東京府の許可を得る必要がありました。用水は、それだけ人々の生活にとって重要なものであることを物語っています。

水車用水路は、本水路から北側に分岐し、水車を回してから本流に戻る構造でした。水車は、水を水車の下の方に掛ける「下掛け」方式で、水車小屋の外に設置されていました。昭和28年にディーゼルエンジン式を導入するまで使用されていました。

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取水用の堰周辺水路図

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下掛け水車

参考資料:
【国分寺市教育委員会『榎戸水車調査報告書』(令和2年3月)】
posted by m.ono at 10:38| 国分寺市の史跡めぐり | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年09月12日

妙法寺と謝恩塔

国分寺市内の新田開発の史跡や遺構をご紹介する第3回目は、五日市街道沿いの、北町3丁目の「国分寺高校北」交差点のところにある「妙法寺」です。第2回で紹介した鳳林院とは、交差点を挟んではす向かいの位置関係にあります。現在、鳳林院は野中新田六左衛門組の菩提寺として機能しているのに対し、妙法寺は、榎戸新田の菩提寺です。

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妙法寺の縁起については、幕末に書かれた『新編武蔵風土記稿』に、『除地、二町一段、瑞雲山と稱す、曹洞宗、郡内中藤村長圓寺の末、開山僧の名を傳へず、これも土地の里正彌四郎の祖先、及吉野又兵衛と云るが、二人力を合せて草創せしといへり、されど吉野又兵衛のことは、外にきくことなし、客殿は八間四方、本尊釈迦を安せり』とあります。
国分寺市教育委員会編『国分寺市の民俗Ⅲ ― 野中新田六左衛門組・榎戸新田の民俗 -』によれば、明暦2年(1656)小川村の開祖小川九郎兵衛が新田開発に着手した時に、武州多摩郡中藤村(武蔵村山市)の長安寺の塔からここに引寺し創建されたとあります。
江戸中期までは、小川の半分と、榎戸新田の一部を檀徒としていましたが、その後、小川の檀徒が皆、小川寺に移ってしまい、榎戸新田の一部を残すのみとなってしまったとのことです。また、明治になって、無住の状態が長く続いたこともあって、明治42年(1909)に榎戸新田に移転しました。移転の際、妙法寺は、棚沢村(現在の奥多摩町古里)の法正院と合併し、榎戸家の墓所であり、希運庵という庵室のあった場所が充てられました。法正院があった棚沢は、榎戸新田における親村のひとつである大丹波村と同じく、奥多摩町に位置しています。
鳳林院のところで紹介しましたが、鳳琳院の墓所の一角には、妙法寺の墓所があります。その入口には、馬頭観音の石仏があります。傍らの石碑には、「天保2年」と刻まれています。墓所が妙法寺に移ったのがいつの頃か不明ですが、野中新田と榎戸新田の話し合いによりこのような形になったと伝えられています。墓所の境界が鳳林院の本堂の屋根の稜線の延長にあるのが興味深いところです。

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〔謝恩塔〕
妙法寺境内に、新田経営に功績のあった代官、川崎平右衛門、伊奈半左衛門の謝恩塔があります。寛政11年(1799)、武蔵野新田82ヵ村によって建立された塔で、国分寺市の重要文化財に指定されています。初期の塔は大正12年の関東大震災で倒壊し、昭和25年に再建されたものです。謝恩塔の脇に説明版があります。
川崎平右衛門は多摩郡押立村(府中市)の名主で、元文3年(1738)に武蔵野新田を襲った大凶作に対処するため、同4年武蔵野新田世話役として登用された人物です。川崎平右衛門の功績を讃える碑や塔は武蔵野の各所に見られ、いかに新田の人々に慕われていたかを物語っています。
発起人総代は榎戸新田名主の榎戸源蔵です。当時の武蔵野の82の新田村総代を榎戸源蔵が務めたことで、その力の大きさを知ることができます。

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参考資料:
猫の足あと(妙法寺)
【国分寺市教育委員会編
 『国分寺市の民俗Ⅲ ― 野中新田六左衛門組・榎戸新田の民俗 -』】
 P15~17 概況 2 開発の経過
 P148~152 信仰 2 寺院と檀家
府中で生まれた江戸時代の代官 川崎平右衛門
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2020年09月04日

鳳林院

国分寺市内の新田開発の史跡や遺構をご紹介する第2回目は、五日市街道沿いの、並木町2丁目の「国分寺高校北」交差点のところにある「鳳林院」です。

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鳳林院の歴史は古く、正徳3年(1713)、上谷保村(国立市内)にあった黄檗宗円成院の末寺として、その時の円成院の住職であった大堅和尚によって創建されたと伝えられています。
幕府が新田開発奨励の高札を掲げた享保7年(1722)、上谷保村の農民7人と江戸の商人4人が開発仲間となって、大堅を含む5人の連名で開発願書を幕府の代官に差し出しました。翌年、幕府から開発の権利金である冥加永250両の上納を命じられましたが、用意できなかったため、上総国万石村(千葉県木更津市)の出身で、江戸で百姓宿を営んでいたといわれる野中屋善左衛門に肩代わりしてもらうことになりました。これにより新田の村名が、「野中新田」となったと言われています。
開発地が割り渡された享保9年、円成院は北野中(後の与右衛門組)に移り、翌年の享保10年に、鳳林院は円成院の末寺として、南野中(後の六左衛門組)の現在の地に境内を定めました。円成院が新田開発に積極的にかかわったのは、黄檗宗が江戸時代になってから起こった新しい宗派で、古い村に檀家を広げることが難しいため、新田村に注目したという背景があります。

開発願書には、大堅が円成院本尊の千手観音から大願成就の御鬮(くじ)をひき、毘沙門天の神託を受けたと記されており、毘沙門天が鎮守として境内にある毘沙門堂に祭られています。

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鳳林院は、現在は、野中新田六左衛門組の菩提寺として機能していますが、当初は、榎戸新田の人々も多数、檀家として名前を連ねていたと言われています。その証として、現在も毘沙門講のメンバーに野中新田六左衛門組と榎戸新田の人々が名を連ねており、毎年10月2日の毘沙門天のオヒマチ(お日待ち)という行事を共同でおこなっています。

鳳林院の並木町公園側の入り口には、馬頭観音の石仏と観音講中の石碑があり、榎戸と南野中連名で寛政10年(1798)に建立されたと刻まれています。このことも、両方の新田の人々の菩提寺であったことを示しています。

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野中新田六左衛門組の墓地は鳳林院にあります。また、鳳琳院の墓所の一角には、妙法寺の墓所があります。年代は不詳ですが、野中新田と榎戸新田の話し合いによりこのような形になったと伝えられています。

参考資料:
猫の足あと(鳳林院)
【国分寺市教育委員会編
 『国分寺市の民俗Ⅲ ― 野中新田六左衛門組・榎戸新田の民俗 -』】
  P15~17 概況 2 開発の経過
  P148~152 信仰 2 寺院と檀家
  P154~155 信仰 4 講と日待ち
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2020年07月26日

祥應寺

「用水の美化活動」に加えて、「新田開発の歴史を紡ぐ」ことも、美しい用水の会の活動の大きな柱です。このブログでも、用水の美化活動や身近な自然の写真に加えて、国分寺市内の新田開発の史跡や遺構をご紹介します。
まず第1回目として、管理人の住まいに近い、本多4丁目の連雀通り沿いにある「祥應寺」を紹介します。国分寺駅から北に10分ほど歩いたところにあります。きわだ斎場があるところと言ったほうが、通りが良いかもしれません。

祥應寺は、鎌倉中期に国分尼寺跡の北側の丘、現在の黒鐘公園のところに開山したのが始まりと言われています。
享保2年(1717)に、国分寺村の名主であった本多三左衛門の子、本多儀右衛門と本多仲右衛門の兄弟が、古址本寺の再興を発願し、黄檗宗の深川海福寺六代住持であった恢門道頂禅師を再興開山に懇請し、寺社奉行より許可を得ました。
徳川八代将軍吉宗公による享保の改革で、武蔵野台地の新田開発が行われたおり、享保11年(1726)、野中新田の一部の割譲を受けて本多兄弟による「本多新田」が誕生します。その際、本多新田の村人の菩提寺として、現在の地に遷されたと伝えられています。古址にあやかり山号を「黒金山」と号したとのことです。
平成27年(2015)、再興より300年を迎えるにあたり、本殿を再建し、山門を新築し、現在の立派な伽藍となりました。

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祥應寺の歴史を記載している碑文の全文はこちらをご覧ください。
祥應寺のホームページにも詳しく記載されています。こちらもご覧ください。

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説明文

児の手柏
祥應寺が現在の地に遷されたとき、同時に、旧跡に古くから植えられていた「コノテガシワ(児の手柏)」の2本の古木も移植されました。そのうちの1本は落雷によって枯れてしまいましたが、1本が現存しています。樹齢600年以上で日本全国の中でも最大最古とされ、市の重要天然記念物に指定されています。枯れた方の古木は、昭和7年(1932)に根株が掘り出され開運地蔵尊として開眼しました。

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碑文の全文はこちら をご覧ください。
祥應寺のホームページにも詳しく記載されています。こちらもご覧ください。

黒鉄(くろがね)の鉄仏
伝承によると、伝祥應寺の旧跡の谷から鉄仏の阿弥陀像が掘り出され、府中の六所宮(大國魂神社)に移され祀られた、そのことより、この地を鉄谷(くろがねだに)と呼ぶようになったと伝えられており、このことが、幕末に編纂された「新編武蔵風土記稿」に書かれています。この鉄仏は、明治の初めの神仏分離令により善明寺に移され、現在もそこに安置されています。
鉄仏の左襟には銘文が陽鋳されていて、「建長5年(1253)に仏師藤原助近によって制作された」とあります。現存する鉄仏の中では最大の坐像で、国の重要文化財に指定されています。
江戸時代中期の文化年代の地誌には、畠山重忠と夙妻太夫(あさづまたゆう)の伝説と結び付けて、重忠が太夫の菩提を弔うために鉄仏と堂を建立したとの言い伝えがあると記載されています。しかし、重忠が謀殺されたのが元久2年(1205)であることを考えると辻褄が合いません。
このように鉄仏には色々な言い伝えがあります。鉄仏が出土したことが、当時の村人にとって、大変大きな出来事であったのでしょう。

参考資料:
猫の足あと(大国魂神社)
(「新編武蔵風土記稿による大国魂神社の由緒」に「鐵佛一体」の記述があります)
東京都文化財情報データベース(鉄造阿弥陀如来坐像)
posted by m.ono at 09:27| 国分寺市の史跡めぐり | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする