「用水の美化活動」に加えて、「新田開発の歴史を紡ぐ」ことも、美しい用水の会の活動の大きな柱です。このブログでも、用水の美化活動や身近な自然の写真に加えて、国分寺市内の新田開発の史跡や遺構をご紹介します。
まず第1回目として、管理人の住まいに近い、本多4丁目の連雀通り沿いにある「祥應寺」を紹介します。国分寺駅から北に10分ほど歩いたところにあります。きわだ斎場があるところと言ったほうが、通りが良いかもしれません。
祥應寺は、鎌倉中期に国分尼寺跡の北側の丘、現在の黒鐘公園のところに開山したのが始まりと言われています。
享保2年(1717)に、国分寺村の名主であった本多三左衛門の子、本多儀右衛門と本多仲右衛門の兄弟が、古址本寺の再興を発願し、黄檗宗の深川海福寺六代住持であった恢門道頂禅師を再興開山に懇請し、寺社奉行より許可を得ました。
徳川八代将軍吉宗公による享保の改革で、武蔵野台地の新田開発が行われたおり、享保11年(1726)、野中新田の一部の割譲を受けて本多兄弟による「本多新田」が誕生します。その際、本多新田の村人の菩提寺として、現在の地に遷されたと伝えられています。古址にあやかり山号を「黒金山」と号したとのことです。
平成27年(2015)、再興より300年を迎えるにあたり、本殿を再建し、山門を新築し、現在の立派な伽藍となりました。



祥應寺の歴史を記載している碑文の全文は
こちらをご覧ください。
祥應寺のホームページにも詳しく記載されています。
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説明文 児の手柏祥應寺が現在の地に遷されたとき、同時に、旧跡に古くから植えられていた「コノテガシワ(児の手柏)」の2本の古木も移植されました。そのうちの1本は落雷によって枯れてしまいましたが、1本が現存しています。樹齢600年以上で日本全国の中でも最大最古とされ、市の重要天然記念物に指定されています。枯れた方の古木は、昭和7年(1932)に根株が掘り出され開運地蔵尊として開眼しました。


碑文の全文は
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祥應寺のホームページにも詳しく記載されています。
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黒鉄(くろがね)の鉄仏伝承によると、伝祥應寺の旧跡の谷から鉄仏の阿弥陀像が掘り出され、府中の六所宮(大國魂神社)に移され祀られた、そのことより、この地を鉄谷(くろがねだに)と呼ぶようになったと伝えられており、このことが、幕末に編纂された「
新編武蔵風土記稿」に書かれています。この鉄仏は、明治の初めの神仏分離令により
善明寺に移され、現在もそこに安置されています。
鉄仏の左襟には銘文が陽鋳されていて、「建長5年(1253)に仏師藤原助近によって制作された」とあります。現存する鉄仏の中では最大の坐像で、国の重要文化財に指定されています。
江戸時代中期の文化年代の地誌には、畠山重忠と夙妻太夫(あさづまたゆう)の
伝説と結び付けて、重忠が太夫の菩提を弔うために鉄仏と堂を建立したとの言い伝えがあると記載されています。しかし、重忠が謀殺されたのが元久2年(1205)であることを考えると辻褄が合いません。
このように鉄仏には色々な言い伝えがあります。鉄仏が出土したことが、当時の村人にとって、大変大きな出来事であったのでしょう。
参考資料:
【
猫の足あと(大国魂神社)】
(「新編武蔵風土記稿による大国魂神社の由緒」に「鐵佛一体」の記述があります)
【
東京都文化財情報データベース(鉄造阿弥陀如来坐像)】
posted by m.ono at 09:27|
国分寺市の史跡めぐり
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