2020年02月27日

玉川上水&分水網遺構100選ウォーク(第4回)

「玉川上水・分水網を生かした水循環都市東京連絡会」が「市民が選んだ玉川上水と分水網の関連遺構100選」として2020年1月のシンポジウムで正式に選定された地点を実際に歩いています。2月27日の第4回は、西武多摩湖線のところの桜橋から玉川上水に沿って下流へ歩きました。今回のルートです。

① 八左衛門橋と稲荷神社
桜橋のすぐ下流に八左衛門橋があります。『八左衛門橋』の名称は、旧小川新田組頭の滝島八左衛門が架けたことによるものです。詳しくはこちらをご覧ください。
八左衛門橋のところ、五日市街道を挟んで南側に稲荷神社があります。こちらは現在小平市上水南町ですが、以前は、野中新田の飛地であり、堀端野中と呼ばれていました。元文元年(1736)に、堀端野中の鎮守の社として、勧請遷祀されたと伝えられています。
稲荷神社の境内に砂川用水が流れています。国分寺を流れる砂川用水は、小平市に入って、この境内を抜けたところで、殆どの流れが下水に流れ込み、事実上の終点になってしまっています。
砂川用水は、歩いた日は工事のため、水は流れていませんでした。写真は流れている日のものです。

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参考資料:
玉川上水(小平シニアネットクラブ)

② 新堀用水と鈴木用水の水門
新堀用水は、八左衛門橋のところで北側に斜めに折れ、再び開渠になります。玉川上水から少し離れた位置を喜平橋近くまで平行に流れます。
開渠になったところ。カモが用水の中を泳いでいました。

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山家橋と喜平橋の中間あたりに鈴木用水の分岐門があります。鈴木用水はここで北側に分かれ、国交大通りのところで暗渠になりますが、鈴木街道の方に流れて行きます。新堀用水の水は、この分岐から殆どの量が鈴木用水側に流れています。
鈴木用水は、今回の主題ではないので、詳しくは下の参考資料をご覧ください。

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参考資料:
【鈴木用水    (川のプロムナード)】
【鈴木用水  (1)(2)(3)  (東京の水 2009 fragments)】

ここからは、国交大通りから喜平町桜通りを通って喜平橋に出ます。喜平橋の橋名は、小平の新田開発の1つである堀野中新田の組頭であった喜兵衛さんの家のそばにあった橋ということから、喜兵衛橋という名が付いたそうです。現在は喜兵衛を喜平と変えて呼ばれています。橋の下流側歩道には、案内板があり、休憩するベンチなどもあり、ちょっとした広場になっています。
ここから玉川上水に沿って北側を歩き、次の小桜橋を南側に渡ります。

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③ 高杉水車と「ほっこぬき」【100選】
砂川用水は、玉川上水の南側を上水に平行に流れていました。
砂川用水は、小桜橋と茜橋の中程で地下に潜ります。丁度このあたりに「高杉水車」があったと思われます。高杉水車は、精米・精麦用で、砂川用水本流に直接仕掛けられ、南側に「く」の字型に余水や水車を止めるときに流す水路があったそうです。砂川用水がこの先しばらくの間、暗渠となっているのは、この水車の排水を「ほっこぬき」で流した名残とのことです。 ここには、現在も高杉商店があります。
さらに下流に歩いて、茜屋橋の南の新小金井街道を渡ると空地があります。その一角に、用水が見える開口部があります。これは、用水の泥上げなどをした作業用の穴です。空地の隣の農家のご主人に話を聞くことができました。昔はこのような穴が所々にあったが、水が流れなくなってから、不要だし、危険だということで、多くは塞がれてしまった、とのことでした。
新小金井街道から約200mのところで、用水は再び開渠になります。
茜屋橋の橋名は、以前この一帯で盛んに栽培されていた「茜草」(染料)の元締めの島田家を「茜屋」と呼んでいたことからだそうです。

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参考資料:
玉川上水ワンポイントガイド(No.6水車)】 【ほっこぬき(ちむくい)

④ 旧小金井分水口と小金井分水の水門【100選】
ここからさらに100m程行くと、玉川上水の脇から南東に斜めに行く道があります。ここに、江戸時代の小金井分水の取水口があったそうです。そして分水はこの道に沿って流れていました。ところが、明治3年(1870)に、玉川上水の通船が開始される時に、各分水が砂川用水から分水されるように統一され、この取水口は廃止されました。
この道を少し行くと、砂川用水があり、そこに小金井分水の水門の遺構があります。ここに説明板がありました。

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⑤ 名勝小金井桜の中心地【100選】
玉川上水に戻って、この先の貫井橋を渡ります。
玉川上水の北側の歩道を歩いて、小金井橋の手前に名勝小金井桜の碑があります。
小金井桜は、元文2年(1737)頃、八代将軍徳川吉宗の時代、幕府の命により川崎平右衛門が、大和の吉野や常陸の桜川など各地の桜の名所から種苗を取り寄せ、小金井橋を中心に玉川上水両岸の6kmにわたり植えたものです。
詳しい説明は、現地に説明板がありましたので、これをお読みください。下に参考の資料もリンクしてあります。

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参考資料:
小金井桜(武蔵野ヒストリー)】 【小金井桜(多摩めぐりの会)
小金井桜花の絵(武蔵名勝図会)

⑥ 海岸寺と小金井桜樹碑
小金井橋の少し上流側の五日市街道を北に渡ったところに海岸寺があり、その入口のところに小金井桜樹碑があります。
この碑文は、江戸時代の漢学者大久保忠休(狭南)が書いたもので、文化7年(1810)、門人等によりに建立されたそうです。小金井桜を植えた川崎平右衛門の業績を称えるとともに、桜の効用として、根が張り堤が崩れるのを防ぐ、春は花が人々の目を楽しませ、夏は街道の木陰になる、玉川上水を清潔に保ち、桜の花びら等が水毒を消すなどと記されています。
海岸寺は、この地の農民の熱心な要望により、元文元年(1936)、越中国泰寺の末寺で秩父郡三峰山の境内にあった海岸寺を引寺したものだそうです。
海岸寺山門は、天明3年(1783)頃、鈴木新田の大工の家に寄寓していた渡り大工が作ったものと言われています。鎌倉時代の禅宗様の建築様式が取り入れられており、小平市の有形文化財に指定されています。

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参考資料:
拓本「小金井櫻樹碑文」(小金井市・小金井桜のあゆみ(1))
海岸寺と小金井桜碑(小平シニアネットクラブ)

⑦ 行幸の松
玉川上水の歩道に戻って、小金井橋の手前に行幸の松とその碑があります。
明治天皇が観桜においでになった名誉を後世に伝えるために、地元鈴木新田の有志が御座所跡に植えたものだそうです。

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⑧ 小金井橋【100選】
小金井街道に架かる橋が小金井橋です。
南岸の下流側に説明のプレートがあり、歴史が詳しく述べられています。これによると、小金井橋の歴史は古く、承応2年(1653)、玉川上水が開かれた時に架けられたと思われるとあります。小金井堤が桜の名所になると、多くの絵画や写真の題材となっています。
昭和5年(1930)に近代的なレンガ造のアーチ橋に架け替えられましたが、平成20年(2008)、都道拡幅により撤去され、レンガと要石の一部がモニュメントとして残されています。
モニュメントの脇に小さな水神の祠があります。

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下は、小金井橋の上から下流を見たものです。左側の護岸の太い樹木が伐採され、ヤマザクラの苗木の補植が進められています。

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左岸の歩道を少し行くと、「御成の松跡」の説明板があります。天保15年(1844)、第13代将軍家定一行が花見に訪れた際、御座所を設けた場所に、里人が1本の黒松を植え「御成の松」と呼ばれたそうですが、平成6年(1994)に松喰虫の被害で枯れてしまい、伐採されたとのことです。現在同じ場所に松が植えられていますが、2代目でしょうか。

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陣屋橋に向かう途中の歩道です。歩道と玉川上水の間にヤマザクラの補植が進められています。

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⑨ 陣屋橋と陣屋跡
小金井公園の江戸東京たてもの園の入口のところに架かるのが陣屋橋です。

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江戸時代、近くに南武蔵野新田開発のための陣屋が置かれ、川崎平右衛門の手代の高木三郎兵衛が常駐していたとのことです。
陣屋があった場所は、たてもの園入口の道を入り、関野通りを右折した左手あたりにあったらしいのですが、今は全く痕跡がありません。当時は三方に土塁を築き、北側に用水堀(関野用水)や掘り抜き井戸もあったといわれています。

小金井公園に入って休憩です。
梅まつりに合わせて、売店「そば茶屋さくら」がリニューアルオープンしました。
梅まつりは終わりましたが、まだ梅はきれいに咲いています。

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⑩ 真蔵院・川崎平右衛門供養塔
小金井公園の正面入口の道から関野通りを西に少し入ったところに真蔵院があります。
その境内に川崎平右衛門供養塔があります。寛政7年(1795)に近隣の7新田(関野新田・鈴木新田・廻田新田・貫井新田・是政新田・小金井新田・田無新田)の農民が、川崎平右衛門の遺徳を偲んで建立したものです。
供養塔の正面に平右衛門の戒名が彫られており、左右側面には「願主および発起人」が書かれています。また、平右衛門の偉業の説明が掲示されています。
真蔵院の外の塀のところに説明板がありました。

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小金井公園正門のところから玉川上水に戻ります。
玉川上水と左岸の歩道の間のヤマザクラは平成25年に植えられたもので、だいぶ大きくなっています。

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⑪ 桜樹接種碑
関野橋から30mほど下った左岸には山型をした自然石の「桜樹接種碑」があります。嘉永4年(1851)3月に、田無村の名主下田半兵衛が建立したもので、正面には「さくら折るべからず 槐字道人」と彫られています。槐字道人とは下田半兵衛のことです。
小金井桜が植えられて100年余りが経ち、老木化が進んだので、嘉永4年(1851)、代官大熊善太郎が近隣の村むらに命じ、補植が行われました。裏面には「桜樹接種記」と題して、そのいきさつが記されています。

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参考資料:
関野橋と桜樹接種碑(庄司徳治コレクションより)
下田半兵衛・4(苗字のルーツは日本の歴史)

⑫ 旧千川上水分水口跡
左岸をさらに下って、あけぼの橋の少し手前に旧千川上水分水口跡があります。
千川上水の分水口は、開発された元禄9年(1696)以降、何度かその場所を変えていますが、明治4年(1871)から昭和41年(1966)まで、ここにありました。
現在の取水口は、境橋の交差点の玉川上水下流左岸の境水衛所跡のところにあります。
分水口から取り込んだ水は、五日市街道下り線の道路下に埋められたヒュ-ム管を伝わって境橋開口部に流れていたとのことです。
旧千川上水分水口跡の50mほど上流に、もう一つ取水口の跡があります。千川水道株式会社が、明治13年(1880)に増設し、明治40年(1907)まで使用されたものだそうです。下の最後の写真です。

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参考資料:
旧千川上水取水口跡(武蔵境散歩道)
千川水道(株)千川上水取水口跡(武蔵境散歩道)

⑬ 名勝小金井桜境石【100選】
境橋の上流側の両岸に名勝小金井桜の境界を示す石柱があります。
前回歩いた小川水衛所跡のところの両岸に西の境界石がありました。こちらは東の境界です。全く目立たず、ひっそりとありますが、健在でうれしいです。
いわれについては、こちらに述べられています。

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⑭ 境水衛所跡
境橋の下流側には境水衛所跡があります。
ここは、江戸時代には水番所として水番人が常駐して、玉川上水の管理をおこなっていました。明治維新後は、水衛所として、淀橋浄水場が廃止され玉川上水の通水が停止するまで、運用されていたとのことです。
水衛所の柵の下流側に現在の千川上水分水口があります。

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参考資料:
境水衛所跡(庄司徳治コレクションより)
境水衛所跡地と千川上水(武蔵野市観光機構)

ここから境橋バス停に戻り、今回のウォークのゴールです。

2019年12月19日

玉川上水&分水網遺構100選ウォーク(第3回)

「玉川上水・分水網を生かした水循環都市東京連絡会」が「市民が選ぶ玉川上水と分水網の関連遺構100選」として2018年12月のシンポジウムで選定した地点を実際に歩いています。12月19日の第3回は、玉川上水駅から玉川上水に沿って下流へ歩きました。今回のルートです。

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① 小平監視所【100選】
玉川上水駅から玉川上水の左側を歩きました。しばらくすると、東京都水道局の小平監視所があります。昭和38年9月に運用が始まりました。ここから玉川上水の水は、ほぼ全量が東村山浄水場に地下の導水管で送られます。現地に説明図がありました。

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② 上水小橋(清流復活) 【100選】
小平監視所のすぐ下流は、玉川上水の底まで降りる遊歩道になっています。玉川上水は、ここから先は、高度処理された再生水が流れています。設置されている説明図の言葉を借りると、「新宿副都心計画による淀橋浄水場の廃止により、昭和40(1965)年以降、小平監視所より下流は水の流れが途絶えました。その後、多摩川上流水再生センターで高度処理された再生水を利用した東京都の「清流復活事業」によって、昭和61(1986)年8月から、玉川上水の小平監視所より下流側に再び清流がよみがえりました。」とあります。
下の右下の写真にあるように玉川上水の底から両岸の法面の状況が良く見えます。南向きと北向きで日射の影響が異なるので、崩落のメカニズムが違ってくるようです。詳しくはこちらの資料に解説があります。

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参考資料:
玉川上水今むかし~第10話 清流の復活~(武陽ガス)

ここからずっと玉川上水の左側を歩きます。
しばらく行くと、左側に清掃工場があります。その東側に『こもれびの足湯』があり、市民に開放されています。地下250メートルから汲み上げた天然水を焼却炉の余熱を利用して温めているそうです。ウォーキングの人たちが一休みしています。今は工事のため休場中でした。下の写真は11月に撮ったものです。

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③ 新堀用水(胎内堀)【100選】
新堀用水は、玉川上水の北側に沿って喜平橋付近まで流れています。小平監視所に設置されている説明図に明示されているように、小平監視所から直接取水しているので、多摩川の水が流れています。
新堀用水は、明治3年に開削されました。明治3年3月、分水口改正(統合)が発表されたことによります。主として玉川上水の通船計画に基づくもので、野火止、小川から千川まで8分水の取水口が、新堀用水に統合されました。後に、野火止用水と千川用水は分離されました。同時期に、南側の分水口も砂川用水に統合されています。
『こもれびの足湯』から少し歩くと、鉄柵が現れます。この付近の新堀用水は、胎内堀と言われるトンネルの中を通っています。鉄柵の中に直径は1メートルぐらいの縦穴があり、胎内掘り工事をした人が出入りしたり、土を運び出した穴だそうです。鉄柵は4ヵ所あるそうですが、現在、法面の保全工事を行っており、1ヶ所しか覗けませんでした。新堀用水は小川橋の手前で開渠になります。
小川橋の際に説明図があります。

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参考資料:
小平市中央公民館公開学習会~新堀用水の話
新堀用水(川のプロムナード)

④ 小川橋(石橋供養塔)【100選】
小川橋の際に石橋供養塔があります。天保3年(1842)の銘があります。小川橋は、江戸時代、小川村と砂川村を結ぶ重要な橋でした。木製の橋から石橋に架け替えた時の記念碑として建てられたと考えられます。この供養塔には東西南北、右 江戸みち、左 所沢・山口、と刻まれており、道標も兼ねています。

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しばらく玉川上水と新堀用水の間の樹木の中の小道を歩きます。ところどころで新堀用水は地下に潜ります。

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⑤ 水車橋(小島水車遺構)【100選】
水車橋は、昭和60年に、新小川橋に平行して架設された歩行者専用の橋です。明治39年に、新小川橋の脇の小島精米店が名主小川家から製粉精米用に水車を譲り受けて、昭和25年頃まで稼動させていたことから、水車橋の名前が付けられました。この水車は、店の名前をとり、「小島水車」と呼ばれていました。
用水が平地を流れているため、水位を稼ぐために遠くから横の水路に流したり、本流に対し 緩い勾配の「回し掘り」を作ったり、また、水車の水輪の途中に横から掛ける「胸掛式」 を採用したり、工夫されていたそうです。
小島精米店は、今はコンビニになっており、その裏手の樹林地の中に水車の土台の一部が痕跡として残っています。2007年に書かれたホームページ「小平市見どころ紹介」には、「敷地内の北側に水車小屋があり、その廃屋も残っている。」と記述されています。

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参考資料:
水車通り(玉川上水の辺りでハナミズキと共に)

西武国分寺線を渡ると、左側に小平中央公園があります。線路を渡ってすぐの新堀用水には水辺に降りる階段があります。今は冬なので誰もいませんが、夏には子供が遊ぶ風景が見られるのでしょうか。このあたりの新堀用水はきれいに整備されています。

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⑥ 久右衛門橋(船溜跡)【100選】
小平中央公園から下流に少し歩いて、府中街道に架かる橋が久右衛門橋です。寛政3年(1791)にまとめられた『上水記』にも記されている古い橋で、当時の名主・久右衛門に因んで名づけられたとされています。現在の橋は昭和7年に架けられたものです。
久右衛門橋の左岸には高札場があったとされています。また、下流50メートルほどの南岸の法面が窪んだ位置に、久保河岸と呼ばれる船溜りの跡があるとのことですが、草木が茂っていてよくわかりません。明治3~5年に玉川上水に物資輸送の船が運行した際の船着場で、小川村の荒井清五郎が『久保河岸』の屋号で経営していたとのことです。

参考資料:
小平市見どころ紹介
久右衛門橋(玉川上水今昔(庄司徳治コレクションより))

府中街道を渡り、津田塾大のキャンパスを左手に見て、過ぎる頃に、上水堤に白い建造物があります。この地下を横断している武蔵野線のトンネルの作業抗で、玉川上水と新堀用水からの漏水を汲み上げるポンプが設置されており、パイプを通して新堀用水に放水しているそうです。

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この先、少し歩くと鎌倉橋があります。その昔、この付近を鎌倉街道が南北に横切っていたとされることから橋の名になったとか。橋より北側の道は現在も鎌倉街道と呼ばれています。

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⑦ 小川水衛所跡
そのまた少し下流、玉川上水が五日市街道と接する場所の近くに小川水衛所跡があります。ここは、江戸時代には水番所として水番人が常駐して、玉川上水の管理をおこなっていました。明治維新後は、水衛所として、淀橋浄水場が廃止され玉川上水の通水が停止するまで、運用されていたとのことです。現在は、散策路が整備され、ベンチなども置かれ、市民の憩いの場となっています。

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⑧ 名勝小金井桜境石【100選】
小川水衛所跡と同じところの両岸に小金井桜の西の境界を示す石柱があります。大正13(1924)年、サクラ博士として高名な三好学理学博士の調査研究により、小金井橋を中心に小川水衛所から境橋まで約6キロが国の名勝に指定されることになり、その指定区域を示す石柱です。東の境界石も境橋上流の両岸にあるそうです。小川水衛所跡の中に説明図があります。

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参考資料:
小平市見どころ紹介

小川水衛所跡から下流に歩き、次の商大橋の先の路地を北に入ると平櫛田中彫刻美術館があります。今回はここがゴールです。

2019年09月27日

玉川上水&分水網遺構100選ウォーク(第2回)

「玉川上水・分水網を生かした水循環都市東京連絡会」が「市民が選ぶ玉川上水と分水網の関連遺構100選」として2018年12月のシンポジウムで選定した地点を実際に歩いています。9月26日の第2回は、第1回の終点であった平和橋から玉川上水に沿って下流へ歩きました。玉川上水散策マップをご覧ください。

① 拝島原水給水口
拝島駅の北口を出てすぐの平和橋から玉川上水の右側の歩道を歩きます。こはけ橋の少し手前に都水道局の拝島原水給水口があります。右側(南側)から流れ込むようになっており、原水口の上には「つつじばし」という橋が架かっています。昭和16年(1941年)、当時東京への給水が従来の上水では不足しはじめたため、突貫工事でつくられたとのことで、拝島町の昭和用水から取水した水を、補給ポンプ所で押し上げ、給水しています。夏場の今は、水は流れていませんが、冬場は流れるそうです。
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参考資料:
都水道局拝島原水給水口(あきしま水と記憶の物語)

そのまま右岸を歩き、西武拝島線の踏切を渡り、しばらく歩くと、拝島上水橋のところで突き当たります。右手正面に「上水公園」があります。ここからは、橋を渡って、上水の左岸を歩きます。右岸の側は、昭和の森ゴルフコースになっており、歩けません。美堀橋を過ぎて、しばらく歩き、ゴルフの練習場になるところで、上水は暗渠に入り、その上は公園のようになっています。戦時中、ゴルフコースのところには昭和飛行機という軍需工場があり、暗渠の部分の南側に滑走路があったそうです。その滑走路の延長計画があり、上水に覆蓋工事が施されたとのことです。松中橋の手前で、上水は再び顔を出します。
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② 松中橋(砂川・柴崎分水取水口) および砂川分水の始まりの部分
松中橋のすぐ手前の右岸に砂川分水と柴崎分水の取水口があります。砂川分水は、江戸時代初期の明暦3年(1657年)に開削され、野火止用水の次に古い分水とされています。これにより砂川の新田開発が進みました。一方、柴崎分水は江戸時代中期の元文2年(1737年)に開削されました。橋を渡る道路を横切ると、砂川用水と柴崎用水が顔を出します。
砂川用水は玉川上水に並行して流れています。砂川用水は、玉川上水と遊歩道を挟んで、右側をしばらく開渠で流れますが、その後はグリーンタウンという新興住宅の家の前の道の下に埋まってしまいます。砂川分水の元の取水口は、砂川1番の天王橋と稲荷橋の間あたりにあったそうですが、今はその痕跡はありません。取水口が現在の場所に移されたのは、明治3年だそうです。
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参考資料:
玉川上水の分水(4)~砂川分水・柴崎分水~(武陽ガス)
砂川新田(2)(おたまじゃくし)

しばらく樹木の中の小道を歩きます。ところどころに彼岸花が咲いていました。
その先は天王橋です。右手の道路の角に小さな神社があります。地図では八雲神社とありますが、名前も出ていない小さな祠でした。この先は、上水の左岸を歩きます。
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③ 残堀川の伏越(ふせこし)
少し歩くと残堀川の伏越があります。玉川上水が残堀川の下をサイフォンの原理でくぐっています。玉川上水が開削される前の残堀川は現在の見影橋付近の立川断層の断層崖下を流れていましたが、玉川上水ができた時に残堀川を玉川上水に流れ込ませるために、両河床の高さが同じになる約600m上流に移動させました。明治時代の中頃、上流の箱根ヶ崎や村山で養蚕や織物業が盛んになり、残堀川の水質が悪化したため、玉川上水に流れ込まないよう、残堀川を玉川上水の下をくぐるよう改修しました。残堀川は普段殆ど水が流れませんが、大雨の時には急激に増水して、流木などが玉川上水のところでひっかかり、しばしば洪水を引き起こしました。そこで、昭和38年(1963年)に現在の玉川上水がくぐる方式に変更したそうです。
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参考資料:
立川断層が造った小川 残堀川と矢川(多摩のあゆみ 147号)

④ 源五右衛門分水口跡【100選】
残堀川の後は右岸を歩きます。しばらく行くと、見影橋があります。橋のところに「見影橋と源五右衛門分水」の説明がありました。橋のすぐ手前の右岸に源五右衛門分水口があります。この分水は、当地の名主であった砂川源五右衛門の屋敷内にある水車を動かすために引かれたもので、水田にも使われていたようです。開設されたのは、明治43年(1910年)だそうです。
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参考資料:
玉川上水の分水(5)~源五右衛門分水~(武陽ガス)
砂川源五右衛門(まるごと玉川上水ブログ)

⑤ 旧残堀川跡
見影橋を渡ってまっすぐ北に行くと西武線のガードがあります。ここでは西武線は土盛りの上を走っています。西武線の脇に立って東側の玉川上水駅の方向を見ると脇の道路が緩やかに上っているのがわかります。ここが立川断層だということが実感できます。
西武線をくぐって少し行って、道が右にカーブするところの右側の畑のフェンスの中に「旧残堀川跡」の説明があります。不思議な場所に立っています。玉川上水が開削される前の残堀川はこの付近を立川断層に沿って流れていたと考えられています。普段は細長い窪地であるが、大雨になると洪水を引き起こす川であったようです。
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参考資料:
立川断層が造った小川 残堀川と矢川(多摩のあゆみ 147号)
残堀川の流路跡・武蔵砂川駅近く(多摩と入間の雑学的な散歩)

⑥ 巴河岸跡【100選】
再び上水に戻って、右岸を歩きます。上り坂になるところに、「巴河岸跡」の説明がありました。明治2年9月、砂川村名主・源五右衛門、福生村名主・半十郎、羽村村名主・源兵衛の3人連名で、「玉川上水船筏通行願」を新政府に提出しました。明治3年4月に許可がおります。しかし、通船を開始してから2年を経過して、玉川上水の汚濁が目につき始め、明治5年5月に廃止されてしまいました。巴河岸は、船溜場(ふなだまりば)の一つです。通船廃止によって埋め戻されてしまい、痕跡は残っていません。
参考資料:
巴河岸跡(立川市教育委員会)
玉川上水通船・「巴河岸」(カフェ「道みち」)
玉川上水通船(おたまじゃくし)

⑦ 立川断層の大曲【100選】
巴河岸跡の先は、道が緩やかな上り坂になって右にカーブしています。玉川上水もここで右にカーブします。ここは玉川上水が立川断層にぶつかるところです。立川断層は東側が数メートル上がっているので、これを越すために大きく迂回するしかなかったのでしょう。グーグルマップの航空写真を見ると、大きく迂回している様子がよくわかります。
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⑧ 金比羅山【100選】
しばらく行き、金比羅橋の手前の右手の小山が金比羅山です。玉川上水側からは登れず、ぐるっと回って、南側から登ります。登り口に立川市教育委員会の説明があり、中腹には由来の説明があります。由来によると、「文政年間(1854〜1860)に砂川村の名主 砂川家が願主となり、頂上に富士浅間、中段に金比羅神社、下段に秋葉神社を勧請したと伝えられています。」「江戸時代に流行した富士塚ではないかといわれています。」現在は、頂上に金比羅神社、中段に秋葉神社がまつられています。玉川上水の舟運が行われた頃から金比羅山と呼ばれるようになったとのことです。
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参考資料:
金比羅山を登る(まるごと玉川上水ブログ)

ここで玉川上水と別れ、五日市街道の方へ、砂川新田開発の面影をたどりました。金比羅山の登り口から見影橋公園に戻り、砂川家の大きな屋敷林に沿って五日市街道に出ました。
見影橋公園から五日市街道に向かう途中に大きな工事の現場がありました。たまたま外にいた職員の方が工事の現場を見せてくださいました。大きな立坑の下の方に横につながる配管が見えます。東京都水道局の送水管新設工事だそうです。東村山浄水場から拝島の給水所まで約16kmにわたり直径2mの送水管を新設する工事です。ここはその中継地点だそうです。災害時にも供給が止まらないように送水管を2重化する工事です。玉川上水の地下30mを通します。
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⑨ 砂川家と砂川新田開発の歴史
砂川家の門は五日市街道に面していて、門の前を砂川分水が流れています。中に入ることは出来ませんが、門のところの写真を撮らせていただきました。門の東側の砂川分水には1mほどの落差があり、勢いよく水が流れ落ちています。 昭和40年までは、ここに直径4.5mの大水車があったとのことです。
ここで、砂川の新田開発の歴史について少しまとめます。慶長14年(1609年)、狭山丘陵の麓の村山郷「岸(きし)」(現在の武蔵村山市)に住む三右衛門(村野、後に砂川)が新田の開発を幕府に願い出とされています。そして、実際に開発が始まったのは寛永4年(1627年)だそうです。玉川上水が開設し、砂川分水が引かれる前から開発は始まっていました。水無川ながらここに残堀川が流れていたことが背景にあるのでしょうか。砂川新田の開発が本格的に進められるようになったのは、砂川分水が流れるようになってからです。
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参考資料:
砂川新田(1)おたまじゃくし)

⑩ 流泉寺
今回のゴールは流泉寺です。山門脇に立川市教育委員会の説明がありました。流泉寺は、臨済宗建長寺派の寺院で天龍山と号します。砂川新田開発が始まった頃、時を同じくして、慶安3年(1650年)に、殿ヶ谷村の福正寺14世東林香玉和尚が開山となり、創建されたとされています。明治時代には、ここが村の教育の中心となり、約30年にわたって小学校が設けられたり、村役場がおかれたこともあったそうです。
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参考資料:
流泉寺(多摩地区寺社案内)】【流泉寺(PortalTokyo)

2019年06月22日

玉川上水&分水網遺構100選ウォーク(第1回)

「玉川上水・分水網を生かした水循環都市東京連絡会」が「市民が選ぶ玉川上水と分水網の関連遺構100選」として2018年12月のシンポジウムで選定した地点を実際に歩いてみることにしました。第1回は、玉川上水の始点である羽村取水堰から拝島まで歩きました。

羽村駅を出発。多摩川に向かって真っすぐ歩きます。新奥多摩街道の手前にある観光案内所で玉川上水散策マップをもらいました。新奥多摩街道の交差点のところに「旧鎌倉街道」の説明図があります。ここを斜めに横切って、羽村取水堰の少し下流のところで多摩川を越え、あきる野市から滝山方面に向かっていたそうです。
さらに道を下ると、右手に稲荷神社、左手に禅林寺があります。禅林寺には、中里介山の墓があります。

① 玉川水神社と陣屋跡
そのまま道を下ると、奥多摩街道にぶつかり、正面は羽村取水堰です。奥多摩街道に沿って右に曲がり、東京都水道局羽村取水所の敷地を過ぎたところに玉川水神社と玉川上水羽村陣屋跡があります。玉川水神社は、上水の守護神として、承応年間に玉川上水築造に尽力した玉川庄右衛門・玉川清右衛門二人の兄弟が勧請したと伝えられ、幕府が管理していたとのことです。羽村陣屋は、玉川上水通水と同時に設置された江戸幕府の役所で「水番所」とも言われていたそうです。現在は、陣屋門だけが残っています。

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参考資料:【玉川水神社】【羽村陣屋跡

② 羽村取水堰【100選】
奥多摩街道を少し戻って道を横切り、階段を下ると、玉川上水を渡る橋があります。橋の上から、取水堰から多摩川の水が玉川上水に流れ込み、一部の水が再び多摩川に戻る様子がよく分かります。橋を渡ると広場があります。広場から、投渡堰と固定堰、第1水門などが良く見えます。牛枠(川倉水制)の説明図もあります。玉川兄弟の銅像の下で小学校の校外学習の児童が記念写真を撮っていました。

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参考資料:【羽村取水堰(東京都水道局)】【羽村取水堰

③ 第3水門と羽村導水ポンプ所
広場から玉川上水の右側を下流に少し下ると、第3水門と羽村導水ポンプ所があります。ここで、多くの水が水道原水として取水され、残りが玉川上水を流れ下ります。職員の方が外にいたので話を聞くことができました。第3水門から村山・山口貯水池へは、自然流下で水を送り。沈殿槽できれいにした水をポンプで小作浄水場に送っているそうです。取水堰の広場に「多摩川の原水の流れ図」がありました。

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④ 玉川上水旧堀跡(加美上水公園) 【100選】
さらに下って、福生市に入ると間もなく加美上水公園があります。公園は小山になっていて、左側に玉川上水が流れ、右側は多摩川の河川敷に接しています。開削の当初、玉川上水は、多摩川の側を通っていました。多摩川本流と近接していたため、多摩川の洪水により、上水まで決壊してしまう危険があるため、約90年後の1740年に現在の位置に移設したそうです。公園の一番下流側、加美上水橋の側の公園内に説明図があります。旧堀跡のような痕跡を見ることができます。
少し下流に玉川上水が不自然に湾曲している箇所があり、ルートが変えられた痕跡が見られます。

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参考資料:【玉川上水旧堀跡】【玉川上水旧堀跡(福生市郷土資料室)

⑤ 田村分水と田村酒造(嘉泉) 【100選】
少し下流の宮本橋のところで、玉川上水沿いを歩く道は終わります。ここを右折してすぐに田村酒造があります。敷地の中を田村分水が流れており、裏門のところから流れ出ています。田村分水は、田村家が慶応3年(1867)、分水開設の願い出を出し認められた、個人分水であり、大名屋敷に流れるものを除いては、大変珍しいものだそうです。水車により、精米・製粉などを行っていました。

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参考資料:【田村分水(武陽ガス)】【田村分水(川のプロムナード)

ここまでで、歩き始めて約2時間、丁度お昼前になりました。福生駅の周辺でランチ休憩です。

宮本橋から五丁橋までは玉川上水沿いの歩道がないので、福生駅から電車で移動です。拝島で五日市線に乗り換えて熊川駅で下車。五丁橋まで歩きました。

⑥ 開削工事跡(水喰土公園)
五丁橋のところに水喰土公園の入り口があります。公園の中程に、「みずくらいど」といわれる玉川上水開削時の堀跡が遺されています。開削当時、上水に水を流したら、ここのところで水が残らず地中に吸い込まれてしまい、このことから水喰土「みずくらいど」の名が誕生したとのことです

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参考資料:【玉川上水開削工事跡】【玉川上水開削工事跡

⑦ 日光橋(レンガアーチ) 【100選】
水喰土公園から玉川上水に沿って遊歩道があります。拝島駅のホームが見えるところまで来ると日光橋があります。名前の由来は、江戸時代以来この橋を通る街道の名前が日光街道と呼ばれていたことによります。日光東照宮警護で八王子千人同心が日光へ赴くために作られた街道です。
日光橋は、明治24年(1891)にレンガアーチ橋に架け替えられました。国内に現存する最古の道路レンガアーチ橋だそうです。昭和25年(1950)に両サイドを拡幅したので、アーチ状になっている橋の下側をのぞくと、中央部分に明治時代のレンガが貼られている様子を見ることができます。

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参考資料:【日光橋】【箱根ヶ崎宿と日光街道

⑧ 拝島分水・殿ヶ谷分水の取水口
拝島駅北口駅前の平和橋が今日のゴールです。
平和橋の下流すぐ右側に拝島分水の取水口があります。拝島分水は江戸時代中頃の元文5年(1740年)に開削され、拝島村民の生活・農業用水として利用されていました。現在も水は流れていますが、殆ど暗渠になってしまっています。
平和橋の下流少し先の左手には、殿ヶ谷分水の取水口跡があります。殿ヶ谷分水は「享保の改革(将軍吉宗)」による新田開発の奨励によって江戸時代中頃の享保5年(1720年)に開削され、現在の立川市西砂地区の生活・農業用水に利用されていました。現在は、分水口が残るのみで使用されていません。

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参考資料:【拝島分水・殿ヶ谷分水(武陽ガス)】【拝島分水(川のプロムナード)
殿ヶ谷の地名