2024年06月14日

玉川上水&分水網遺構100選ウォーク(第13回)

「玉川上水・分水網を生かした水循環都市東京連絡会」が「市民が選んだ玉川上水と分水網の関連遺構100選」として2020年1月のシンポジウムで正式に選定された地点を実際に歩いています。
2024年6月13日の第13回は、千川上水の第1回、千川上水を、玉川上水本流との分岐の境橋から、清流復活事業区間の約半分の関前橋の先まで歩き、そこから、東伏見稲荷~下野谷遺跡~武蔵関公園を巡って西武新宿線の東伏見駅まで歩きました。
今回のルートです。

千川上水は、1696年(元禄9年)に将軍徳川綱吉により開削が命じられました。公の目的は、小石川御殿(綱吉の別荘)、湯島聖堂(幕府学問所)、上野寛永寺(徳川家菩提寺)、浅草寺(幕府祈願所)等への給水でしたが、綱吉の寵臣であった柳沢吉保の下屋敷の六義園内の池にも大量に引水されたとあります。
名前の由来は、分水口の近くが当時の仙川村で、そこを通したからということです。
その後、流域の農業用水としても利用されるようになりました。
明治になって、王子にあるいくつかの工場の工業用水としても使用されるようになりましたが、1971年(昭和46年)には、給水をやめ、上水としての使命が終わりました。
現在流れているのは、東京都の清流復活事業により、1989年(平成元年)に開渠部約5kmが下水処理水の活用により復活したものです。
千川上水遊歩道入口に設置されている説明板に清流復活の上水のマップがありました。
ご覧ください

参考資料:
千川上水(ウィキペディア)

① 千川上水取水口(境水衛所跡)
玉川上水の境水衛所跡のところに、現在の千川上水取水口があります。
以前の分水口は、境橋の少し上流側にありました。遺構が残っていますが、この季節は草が生い茂り見えません。
第4回ウォークの時のレポートに写真がありますので、ご覧ください

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② 清流復活の碑【100選】
取水口で分岐した千川上水は、五日市街道を暗渠でくぐると、開渠になり、五日市街道の上下線の間を武蔵野大学前まで流れて行きます。
開渠が現れる少し手前に、清流復活の碑があります。
周りがササ(タケ?)に覆われてしまっていて、下の部分が隠れてしまっていました。ネットで調べたら「トウオカメザサ」と出てきました。

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しばらく、千川上水沿いの遊歩道を歩きます。

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アジサイが咲いていました。

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③ 文字庚申塔
武蔵野大学正門の少し手前の歩道の脇に文字庚申塔があります。天明4年(1784)に当時の上保谷新田の入口に建立された、庚申塔です。前年の天明3年に浅間山の大噴火があり、飢饉が始まった年です。村の入口から飢饉が侵入しないようにとの村人の強い願いが込められた庚申塔だと考えられます。
説明板がありました。

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④ 石橋供養塔と庚申塔
武蔵野大の交差点を渡ると石橋供養塔と庚申塔があります。この場所は、千川上水と五日市街道が交差する場所で、古くから橋が架けられていましたが、天保12年(1841)に石橋に架け替えられたのを記念して石橋供養塔が建てられたとあります。
説明板がありました。

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⑤ 千川上水遊歩道【100選】
千川上水遊歩道に入ります。

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千川上水遊歩道を歩きます。

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関前橋を越えました。今回は、ここで千川上水から離れ、東伏見に向かいました。

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千川上水から離れた路地に色々な花が咲いていました。

ギンバイカが咲いていました。

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イヌホオズキです。

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巨大な柱サボテンに圧倒されました。よく見ると、上の方に花が咲いていました。

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⑥ 東伏見稲荷神社
東伏見稲荷神社に着きました。6月30日の大祓神事に向けて、茅の輪ができていました。

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東伏見稲荷神社の鳥居の前から石神井川に沿って歩きます。弥生橋から眺めた石神井川です。ここから南側の高台に登りました。

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⑦ 下野谷遺跡
下野谷遺跡に着きました。
今から5,000から4,000年前の縄文中期に石神井川流域の拠点となるような大規模な集落が約1,000年間にわたり存在した跡だそうです。石神井川の南側の高台に浅い谷を挟んで東西に集落があり、現在は、西側だけが、国史跡として、大変良く整備されています。
現地の説明板の記述です。当時の様子を想像した鳥観図もありました。
ここで昼食としました。

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石神井川に下りて、下流に向かって歩きます。

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コサギが水の中を歩いていました。水の中で足をぶるぶる振るわせて歩く姿は滑稽でした。小魚をびっくりさせて捕まえようとしているのでしょう。

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⑧ 武蔵関公園
武蔵関公園に着きました。富士見池という細長い池があり、池を1周するように遊歩道が整備されています。現在は、練馬区の公園になっていて、隣接して流れる石神井川が増水した時に水を流し込む調節池の機能を持っています。
池の入口に由来を示した説明板がありました。

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カイツブリが泳いでいました。

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参考資料:
武蔵関公園(ウィキペディア)
練馬区立武蔵関公園(練馬区のホームページ)
富士見池調節池(東京都建設局)

ここから東伏見駅まで歩いて、終了です。

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2023年12月01日

玉川上水&分水網遺構100選ウォーク(第12回)

「玉川上水・分水網を生かした水循環都市東京連絡会」が「市民が選んだ玉川上水と分水網の関連遺構100選」として2020年1月のシンポジウムで正式に選定された地点を実際に歩いています。
2023年11月27日の第12回は、野火止用水の第3回、武蔵野線新座駅から野火止用水を遡り、伊豆殿橋を回って平林寺まで行きました。平林寺境内をぐるっと散策してから、平林寺堀から野火止用水を遡って、平林寺堀分岐まで歩きました。今回のルートです。

新座市は、柳瀬川・黒目川の開けた沖積低地と、それにはさまれた野火止台地からなり、古くから居住の場のみならず、宿場や交通の要所として栄え、時代の流れとともに大きな発展をしてきました。旧石器時代から古墳時代にいたるまで両河川流域を中心に100ヶ所余りの遺跡があります。
天平時代には、先進文化をもつ新羅人の政治的移住が行なわれました。天平時代には、新羅郡と呼ばれ、その後、新倉郡、さらに新座郡(にいくらぐん、享和3年(1803)からは、にいざぐん)と名称を変え、新座市の名前の由来となっています。

参考資料:
新座の歴史(新座ホームページ)

新座駅から野火止用水に向かってせせらぎのある小道を歩きます。「ふるさと小道」と呼ばれているようです。人工の流れですが、野火止用水から水を引いています。

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途中の新座駅南口公園には、自然のせせらぎのような場所があります。

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この流れを遡って行くと、ふるさと新座館の裏手を流れ、「野火止用水公園」にたどり着きます。公園の中を流れているせせらぎは、野火止用水の流路の上に作られた人工の流れのようです。公園の北側の外れで暗渠に流れ込みますが、この先、旧川越街道まで、水路は続いていて、そこで完全に暗渠になります。

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公園の南側を走る新川越街道の歩道橋を渡ります。歩道橋の上から野火止用水の歴史的景観の流れが見えます。

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新川越街道のところで歴史的景観の野火止用水は暗渠に流れ込みます。流れが見える野火止用水は、実質的にはここで終わります。野火止用水は、ここから暗渠になって、志木市を抜け、柳瀬川が新河岸川と合流するあたりで新河岸川に流れ込みます。

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ここから野火止用水を遡って歩きます。新座市は、野火止用水をとても大切にしていて、景観がよく整備されていて、気持ちよく歩けます。
所々に、野火止用水を説明した掲示版があります。夫々記述の内容が微妙に異なりますので、たし合わせて整理しました。野火止用水の歴史が分かりますのでご覧ください

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参考資料:
野火止用水をあるく(新座ホームページ)
野火止用水(荒川上流河川事務所)

こもれび通りにぶつかると道路に沿った流れは終わり、畑の間を流れます。

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水路の傍にある柿の木は、葉が全て落ちて、赤い柿の実が用水に彩りを添えていました。

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① 野火止ホタルの里【100選】
少し歩くと、用水の左岸に「野火止ホタルの里」というホタルの飼育施設があります。この施設は、新座市が建設し、市民ボランティアにより運営されています。毎年6月には、ホタル観賞会「ホタルの夕べ」が開催されています。

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参考資料:
野火止ホタルの里を作る会

② 平林寺境内林【100選】
ホタルの飼育施設の反対側、用水の東側には、平林寺の境内林が広がっています。この雑木林は国の天然記念物に指定されています。殆どは、平林寺の境内ですが、野火止用水側の一部は開放されています。
詳しくは、この説明板をご覧ください
平林寺の境内にも説明板が設置されていました。こちらもご覧ください
雑木林で見られる野鳥の紹介もありました。春~夏~秋秋~冬~春

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さらに用水に沿って歩きます。所々にモミジの紅葉が見られました。

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③ 伊豆殿橋
野火止用水は、用水の開削をおこない、野火止の地の開発を進めた川越藩主・松平伊豆守信綱に感謝にて、「伊豆殿堀」とも呼ばれました。平林寺の境内の南西の角の野火止用水に伊豆殿橋があります。
何年か前に来た時には、もう少し石橋の面影があったような気がしますが、現在は、道路が拡張整備されて、ただ名前が残るだけになってしまいました。

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橋の用水沿いの道を挟んだ西側に石橋供養塔があります。石橋供養塔と刻まれている四角い石の上に馬頭観音坐像があります。安永8年(1779)と刻まれています。

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橋の東側のたもとには地蔵菩薩の石仏があります。享保3年(1718)と刻まれています。

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参考資料:
石仏画集・伊豆殿橋たもと(私家版 さいたまの石仏)

平林寺の南側の道路を東に総門に向かって歩きます。
途中に平林寺堀の流れが境内に入るところがあります。平林寺の境内は西から東に向かってなだらかに下る地形にありますが、流れは、やや西側を高いところから入ります。
道路は坂をなだらかにするために、掘りこんであるので、流れが入るところの境内は、道路より1mほど高くなっており、流れはサイフォンの原理で道路を横切り、境内に入って再び顔を出します。

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④ 平林寺【100選】
東側の平林寺総門に着きました。平林寺境内を1時間程、ゆっくり散策しました。

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平林寺は、野火止の地の開発を進めた川越藩主・松平伊豆守信綱の一族の菩提寺であり、寛文3年(1663)、信綱の遺命によって岩槻から移転されました。

参考資料:
平林寺の歴史(平林寺ホームページ)

総門の脇から、境内を流れた平林寺堀の流れが出て行きます。

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総門を入って、正面に山門、その向こうに仏殿が見えます。

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山門をくぐると、右手に高野槇の大木がそびえていました。壮観です。

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仏殿の左手、南側を回って境内林に向かいます。放生池にかかる紅葉がきれいなので、1枚撮りました。

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南側の墓所のところに、「島原・天草の一揆供養塔」があります。この一揆を松平伊豆守信綱が収めたことを知らしめるために、後の家臣が、文久元年(1861)に建立したものです。説明板がありました。

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そのすぐ西側は、1段高くなっていて、平林寺堀に橋が架かっています。平林寺堀が境内の高いところから入って来ているのが分かります。

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その先に大河内松平家の廟所がありますが、そのすぐ脇に安松金右衛門の墓があります。安松金右衛門は、松平伊豆守信綱の家臣で、玉川上水・野火止用水の開削を実際に指揮した立役者です。

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参考資料:
安松金右衛門(ウィキペディア)

広い大河内松平家の廟所の中央に松平伊豆守信綱公の墓があります。墓誌に詳しく書かれていたのでご覧ください

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裏手の境内林に入りました。
奥の隅のほうに「業平塚」があります。野火止塚の一つで、在原業平とは直接関係ないようです。説明板がありましたので、ご覧ください

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こちらは、「野火止塚」です。野火の見張台だったということです。いつからあるものかは定かではありません。説明板がありましたので、ご覧ください

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境内のところどころに植えられているモミジの紅葉がきれいでした。

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⑤ 睡足軒の森
平林寺の総門を出て、「睡足軒の森」まで足を伸ばしました。この場所は、江戸時代、高崎藩の「野火止陣屋」置かれていたところで、近代には、「日本の電力王」松永安左エ門(耳庵)が所有していました。説明板がありましたので、ご覧ください

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参考資料:
睡足軒(新座ホームページ)

総門の前の蕎麦屋で昼食になりました。

⑥ 平林寺堀【100選】
後半は、平林寺堀が境内に入るところまで戻って、平林寺堀を遡ります。
平林寺堀は、平林寺が、寛文3年(1663)に岩槻から移転する際、用水を平林寺に引き入れるために野火止用水の分水として造られました。

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⑦ 築樋【100選】
平林寺境内との高低差の関係で、平林寺堀は、約800mにわたり、「築樋」と呼ばれる土手を築いて、その上に水路が開削されています。
この先、上流の、新座営業所バス停のところに説明板がありました。ご覧ください

現在は、ところどころに、車を通すために、土手を切通して、サイフォン原理で水を流しています。

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関越自動車道を樋で渡っています。樋に合わせて、道路の橋も高くなっています。

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関越自動車道を越えたところの産業道路との交差点です。築樋の高さが分かります。

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ここで平林寺堀と別れ、野火止用水の本流に戻ります。

新座市民総合体育館の脇から、野火止用水を遡ります。このあたりは本多緑道と呼ばれています。

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しばらく歩いて、運動場が終わるあたりに「百笊稲荷大明神」と書かれた祠がありました。ネットで調べてみましたが出てこないので、神社ではなさそうです。個人のお稲荷さんでしょうか。「百(ひゃく)」「笊(ざる)」ですが、読み方もよくわかりません。

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しばらく緑道を歩きます。

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西陣屋通りが曲がってきて、ここで緑道は終わりです。しばらく道路の縁を歩きます。

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⑧ 平林寺堀分岐【100選】
少し歩くと、野火止用水と平林寺堀の分岐があります。平林寺堀は、野火止用水史跡公園の中を抜けて、平林寺まで、約1.5kmの流れです。

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分岐の近くに説明板がありました。写真を見ると、用水を生活に利用している昔の風景が分かります。

今回のウォークはここで終了。東久留米駅までバスに乗りました。

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2023年06月20日

玉川上水&分水網遺構100選ウォーク(第11回)

「玉川上水・分水網を生かした水循環都市東京連絡会」が「市民が選んだ玉川上水と分水網の関連遺構100選」として2020年1月のシンポジウムで正式に選定された地点を実際に歩いています。
前回から野火止用水を歩いています。2023年6月19日の第11回は、八坂駅から清瀬駅まで歩きました。今回のルートです。

八坂駅を出ると、東村山浄水場と境浄水場をほぼ一直線に結ぶサイクリングロードです。

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サイクリングロードが野火止用水を横切るところから、野火止用水を下流に歩きます。

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しばらく歩くと暗渠になりますが、遊歩道になっていて、周りに様々な木が植えられています。

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遊歩道で見つけた花を紹介しましょう。
トウネズミモチ(唐鼠黐)の花が咲いていました。葉は、楕円形で厚く光沢があり、葉脈が透けて見えるのがネズミモチとの違いだそうです。「トウ」は、「唐」で、明治の初めに中国から入ってきました。

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コムラサキの花が咲いていました。

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八重咲きのザクロの花が咲いていました。花ざくろ”とも呼ばれ、ネットの情報では、花弁は雄しべが変化したものなので花粉を作らず、実が成らないとのことです。

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エゴノキの若い実が木の枝にたくさんぶら下がっていました。

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ハマユウの花が咲いていました。

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ネジバナが咲いていました。きれいな可愛い花ですが、残念ながらピンボケでした。

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新青梅街道を横切ると、再び流れが顔を出します。

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流れのあちらこちらにノカンゾウが咲いていました。

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恩多稲荷児童遊園に着きました。「大岱稲荷(おんたいなり)プロジェクト」という市民ボランティアが中心になって整備されているそうで、きれいに保たれていました。隣接する大岱稲荷神社や少し先の恩多野火止水車苑も整備しているそうです。

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野火止用水から恩多稲荷児童遊園へ流れを渡った橋の傍に石の祠があります。大岱稲荷神社と関連があるのでしょうか。

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① 大岱(おんた)稲荷神社
大岱稲荷神社は恩多稲荷児童遊園に隣接しています。恩多稲荷児童遊園をぐるっと回るように参道があります。
大岱稲荷神社は、寛延年間(1748-1751)に名主当麻氏が京都伏見稲荷を勧請して創祀したと伝えられています。寛延4年(1751)に京都の伏見稲荷から、正一位稲荷神社の勧進証書を受けています。由緒書きをご覧ください

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参道の傍らに「社吹(しゃぶき)堂」があります。由緒書きがありましたので、こちらをお読みください。

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境内の下流側に野火止用水を渡る石の橋があります。「がっかうばし」とあります。明治6年に、境内の一角に大岱学校(現在の大岱小学校の前身)が開かれました。

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参考資料:
東村山町内見て歩き(東村山観光ボランティアガイドの会)
大岱(おんた)稲荷神社(神社探訪)
大岱稲荷(おんたいなり)神社の春の例大祭(東村山市ホームページ)

② 恩多野火止水車苑【100選】
この地には、天明2年(1782)から昭和26年(1951)まで、直径7.5m、幅0.9mの大きな水車が設置されていました。旧大岱(おんた)村の當麻(とうま)本家が酒造米の精米を目的に川越藩の許可を得て設置したといわれます。
当時の水車は、上流の堰から水を引いた回し堀で導水して回す方式でした。恩多野火止水車苑の水車は、それを完全に復元したものではありませんが、公園的要素を盛り込んだ憩いの場として設置されました。
説明板がありました。ご覧ください

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参考資料:
野火止の水車苑(東京都教育委員会)
恩多野火止水車苑の水車が復活しました(東村山市ホームページ)

③ 赤レンガ橋(中橋)
恩多野火止水車苑の少し下流の野火止用水に赤レンガの丸いアーチの橋が架かっています。橋の親柱に中橋と書かれていました。明治42年9月竣工と読めます。

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④ 万年橋のケヤキ【100選】
その少し下流に、根が野火止用水を跨ぐように張っているケヤキの大木があります。「万年橋のケヤキ」呼ばれています。樹齢は500~600年と推定され、高さ30m、幹回り6.3mあります。東村山市の天然記念物に指定されています。
野火止用水掘削時に、木の根の下をくぐって掘ったのか、用水ができてから木の根が伸びたのか、定かではありませんが、橋のなかった時代に、人々がこの木の根の上を渡っていたことは確かだそうです。

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万年橋のケヤキの下に小さな祠があり、中に2基の馬頭観音が安置されています。右の坐像には、寛政6年(1794))と彫られているのが読めます。近所に住む金子家の祖先が愛馬供養のために建立したと伝えられています。

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参考資料:
万年橋のケヤキ(東京の樹)

この後少しの間、流れに沿って歩けます。

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⑤ 樹林地の雑木林【100選】
野火止用水沿いには、所々に歴史環境保全地域として雑木林の緑地が残っています。下里6丁目地区にある緑地の中の雑木林を歩きました。

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⑥ 下里富士(三角山)
新小金井街道が合流する場所の少し手前に「三角山」というバス停があります。何かなと、調べてみると、下里富士という富士塚がありました。地元では、通称「三角山」と呼ばれているそうです。文化3年(1806)から明治12年(1879)の間に築造されたと推定されています。頂上には、富士浅間神社が祀られています。

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参考資料:
下里富士(三角山)(古墳なう)

道路の歩道を歩く単調な道なので、暑さもあって、「三角山」バス停からバスで清瀬駅に出ました。

下は、別の機会に歩いた時の写真です。
小金井街道を横切った下流の水道道路に沿った流れです。

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2023年02月20日

玉川上水&分水網遺構100選ウォーク(第10回)

「玉川上水・分水網を生かした水循環都市東京連絡会」が「市民が選んだ玉川上水と分水網の関連遺構100選」として2020年1月のシンポジウムで正式に選定された地点を実際に歩いています。今回から数回に分けて野火止用水を歩きます。2023年2月20日の第10回は、玉川上水駅を出発し、「清流復活」の玉川上水との分岐点から八坂駅まで歩きました。今回のルートです。

野火止用水は、玉川上水開削で功績のあった川越藩主老中松平信綱により、領内に生活用水を供給するために開削された用水路です。玉川上水の最初の分水として、玉川上水が完成した承応2年(1653)の翌々年承応4年(1655)に開削されました。玉川上水7、野火止用水3の割合で分水されたそうです。
現在では「野火止」と書きますが、開削当初は野火留村(現在の新座市野火止)の名を取り、野火留用水と呼ばれていたそうです。また、信綱の武家官位である「伊豆守」にあやかって「伊豆殿堀」とも呼ばれています。

参考資料:
野火止用水(ウィキペディア)
野火止用水の歴史(小平市ホームページ)
野火止用水1(川のプロムナード)
野火止用水をゆけば(小平市立図書館)

玉川上水駅から玉川上水を下流に少し歩くと東京都水道局の小平監視所があります。多摩川の水はここで終わり、ほぼ全量が東村山浄水場に地下の導水管で送られます。
小平監視所の下流側からは、高度処理された再生水が流れています。
第3回で歩いたところなので、詳しくはこちらをご覧ください。

野火止用水の分岐は、小平監視所の下流側なので、野火止用水を流れる水も高度処理水です。現在は、玉川上水から明確に分岐はしておらず、高度処理水が玉川上水側と野火止用水側にそれぞれ流れているだけなのかもしれません。
玉川上水の「清流復活」の碑の近くから西武拝島線の線路に沿って遊歩道があり、その下を暗渠で流れています。遊歩道の始まりのところに、説明板がありました。

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野火止用水は、しばらくの間、暗渠になっていて、その上の遊歩道を歩きます。
小平監視所が出来て東村山浄水場に通水が始まった時、導水管の敷設を水が流れなくなった野火止用水の流路を利用しておこなったとのことです。昭和59年(1984)の「清流復活事業」で、野火止用水はよみがえりますが、導水管を敷設している区間は開渠にならず、通水管を平行して埋設してあると思われます。

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① 赤松並木
西武拝島線に沿って、東大和市駅までの中間あたりまで来ました。
このあたりは、樹齢60年以上の赤松が並ぶ並木道になっています。「赤松並木」と呼んで見どころとなっています。

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東大和市駅の少し手前まで来ました。遊歩道を説明する看板がありました。

② 青梅橋道標庚申塔
東大和市駅まで来ました。駅前を青梅街道が走っています。昔、野火止用水がここで青梅街道を横切っていたので、青梅橋が架かっていました。暗渠になった時に橋は壊されて、現在は痕跡も残っておらず、説明板だけがあります。もう1枚古い説明板がありますが、字が殆ど消えてよく読めません。昔の青梅橋の絵が描かれているようですが、下の「御嶽菅笠」の橋の部分を拡大したもののようです。

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東大和市のホームページから引用

嘗て青梅橋が架けられていたあたりの歩道の縁に祠の中に納まった庚申供養塔があります。安永5年(1776)と彫られています。また、側面には道の行く先が彫られており、道標の役目も果たしていました。左には、嘗ての青梅橋の橋柱があります。庚申供養塔の隣にある大木は、「こだいら名木百選・第1号」に指定されている「イチョウ」です。下の写真で、庚申供養塔の背中を走っているのは、小川橋から来る「村山街道」で、背中に向かって来る道が、「青梅街道」です。

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参考資料:
青梅橋跡(東大和市史跡)(東大和どっとネット)
青梅橋の移り変わりを見守った庚申塔(狭山丘陵の麓で)

青梅街道を渡ると、西武拝島線は右にカーブして野火止用水から離れてゆきます。

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③ 瘡守稲荷(かさもりいなり)
丁度野火止用水と西武拝島線が分かれるところの右手に小さなお稲荷様があります。瘡守稲荷(かさもりいなり)です。元は、青梅橋の傍らにあったものが、駅前広場の整備に伴ってここに移設されました。江戸時代から、瘡守稲荷と呼ばれ、疱瘡や色々な病に霊験があるとお参りされていたとのことです。

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参考資料:
青梅橋の瘡守稲荷(東大和どっとネット)

西武拝島線をくぐって少し行くと水路が現れます。東村山浄水場への導水管が埋められたところに作られた人工の流れです。野火止用水の水路も埋められているのでしょうか。

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④ ホタルの里【100選】
水路の中間あたりに、水路に平行して流れを作り、ホタルを育てている区画がありました。「ホタルの里」と名前がついています。

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参考資料:
ホタルの里づくり(東大和市ホームページ)

流れの脇の変電所の柵にキセキレイがとまっていました。

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⑤ 清流復活の碑
水路が終わると、野火止用水は右の折れ、ここから姿を現します。近くに「清流復活の碑」があります。本当の意味で、ここから野火止用水の復活です。
浄水場への導水管は、この先150m程で斜め左に折れ、一直線に東村山浄水場へと向かいます。水路の上は、遊歩道になっています。
下の写真の左側が、東村山浄水場に向かう遊歩道。右側が、野火止用水です。

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このあたりの野火止用水は、昔の面影を残しています。

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⑥ 野火止緑地【100選】
ここからしばらくは遊歩道の左手に緑地が広がり、気持ちの良い道です。
野火止用水に沿って、ところどころに緑地が残っていて、東京都が「野火止用水歴史環境保全地域」に指定し、保全に努めています。

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参考資料:
野火止用水歴史環境保全地域(東京都環境局ホームページ)

⑦ 用水工夫の像
少し歩いて、けやき通りを渡ったところに「用水工夫の像」があります。東大和市の美術工芸品設置事業の一環として設置されたものだそうです。
近くに野火止用水の「清流復活」と「歴史環境保全地域」を説明した掲示がありました。

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歩きながら、野火止用水は、色々な顔を見せてくれます。

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西武国分寺線を渡ります。

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⑧ 九道の辻公園
西武国分寺線を渡ると、野火止用水と道路を挟んで右側に九道の辻公園があります。道路に沿って細長い公園で、いくつか彫刻が置いてあります。

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⑨ 九道の辻
野火止用水が府中街道とぶつかった交差点は、現在は「八坂」交差点ですが、嘗ては「九道の辻」と呼ばれていました。
橋の傍に「九道の辻」の標柱が立っています。標柱には「この辻は、鎌倉へ18里(約72km)、前橋へも18里と旧鎌倉街道のほぼ中間にあたります。江戸道・引股道・宮寺道・秩父道・御窪道・清戸道・奥州街道・大山街道・鎌倉街道の九本の道が、この地に分岐していたことから、九道の辻という名がつきました。」とあります。
下の「迷いの桜」の説明板に地図が描かれています。

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ここにも野火止用水の説明板がありました。

参考資料:
九道の辻(昔の多叉路)(9★Collection)

⑩ 迷いの桜
九道の辻の府中街道を渡った八坂交番の裏手の東京街道の角のところに「迷いの桜」の説明板があります。説明板によると、「元弘3年(1333)5月、新田義貞が鎌倉攻めの際にこの「九道の辻」にさしかかり、どれが鎌倉への道か迷ったので、一本の桜を植えさせた」とあります。
桜は幾度も植え替えられ、最近は、昭和55年(1980)に植えられたとのことですが、40年以上経っているので、あたりを見ましたがそれらしきものは見つかりませんでした。

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⑪ 石橋供養塔・馬頭観音
九道の辻の府中街道と野火止通りの角の野火止用水の傍らに石橋供養塔とその右側には馬頭観音が並んであります。
石橋供養塔には、元文5年(1740)と刻まれ、左右の側面には「左前沢道 是より江戸道 右八王子道」「右 川越道 左青梅道 これより山口道」と刻まれているようです。馬頭観音は、明治44年と刻まれていて、比較的新しいものです。

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参考資料:
江戸街道1橋場(田無)~九道の辻(八坂)(百街道一歩の道中記)

野火止用水は、九道の辻からさらに北に、西武多摩湖線の下を流れて行きます。

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多摩湖~境の水道道路まで来ました。今回はここまで。八坂駅に向かいました。

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2022年11月07日

玉川上水&分水網遺構100選ウォーク(第9回)

「玉川上水・分水網を生かした水循環都市東京連絡会」が「市民が選んだ玉川上水と分水網の関連遺構100選」として2020年1月のシンポジウムで正式に選定された地点を実際に歩いています。2022年11月7日の第9回は、小川用水を西武多摩湖線の青梅街道駅から小平あじさい公園まで、おもに青梅街道の南側の水路に沿って歩き、さらに西武新宿線の北側まで足を伸ばしました。
今回のルートです。

小川用水開削の経緯については、小川用水上流部分のレポートをご覧ください。

青梅街道駅の改札口を出て、北側の水路に回りました。水路が駅のホームの下を流れているのがよく見えます。

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① 馬継場跡
小川九郎兵衛が小川村開発を許可された時の条件の一つが、青梅街道の伝馬継ぎ(てんまつぎ)を勤めることでした。(小川用水上流部分のレポート参照)その馬継場が、現在の府中街道付近から平安院付近までありました。その区間の青梅街道の道幅が広くなっているのは、その名残りだそうです。
馬継場が開設された事によって小川村は大きく発展しました。正徳3年(1713)には荷馬158頭が飼育されていたという記録があります。
写真は、青梅街道駅の改札口を出た、青梅街道の踏切のところから西側を撮ったものです。道路の道幅が広くなっていることが分かります。

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参考資料:
小川用水2(川のプロムナード)
小川村の馬(小平市立図書館/こだいらデジタルアーカイブ)

青梅街道の南側を歩きます。

② 馬頭観音
少し歩くと、平安院の手前の青梅街道の道路端に古い石塔があります。掘られた文字が風化して不鮮明ですが、馬頭観音と読めます。建立の年月は不明です。ここは、嘗て馬継場の東の端だったところなので、それと何か関係があるのでしょうか。

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③ 平安院
享保9年(1724)5月、幕府の許可を得て小川新田の開発が始まりました。当時の新田の名主小川弥市は、小川寺の住職と図り、江戸市ヶ谷河田町の月桂寺の境内にあった平安院を移し、元文4年(1739)に菩提寺として建立しました。
山門の脇に説明板がありました。

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参考資料:
平安院について(平安院ホームページ)
遠渓山平安院(猫の足あと)

④ 庚申塔
平安院の門前、青梅街道の道路端に庚申塔の石塔があります。上述の説明板に拓本が表示されていて、「願主 小川弥市」「小川新田村」とあります。「享保2年(1717)」造立とありますが、新田開発前なので、小川村時代のものと思われます。

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⑤ ハッピーとんぼ池 / 旧小平村役場門柱
さらに青梅街道に沿って歩いて、小平一中に向かう路地を南に入ると、小川用水を利用した親水施設「ハッピーとんぼ池」があります。大きくはありませんが、きれいに整備されていて、ちょっとした憩いの場になっています。

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ハッピーとんぼ池の入口の両側に古い門柱が立っています。説明板によると、旧小平村村役場の門柱だそうで、昭和17年(1942)に設置されたと思われます。平成28年に、ここに移設されました。

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⑥ あかしあの水路
小平駅から南にまっすぐ伸びたあかしあ通りの両側の小川用水は、「あかしあの水路」という名前が付けられています。

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⑦ 熊野宮と一本榎
あかしあ通りを過ぎてしばらく行った青梅街道の南側に大きな鳥居があります。熊野宮の参道の入口です。

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参道を南に少し歩くと、小川用水が横切ります。参道から水路が良く見えます。よく整備されていてきれいです。

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参道の突き当たりが熊野宮です。入口に説明板がありました。
熊野宮は、縁起によると、殿ヶ谷村の阿豆佐味天神社の摂社として、岸村に産土神として奉斎されていた社が始まりで、小川村の開拓に着手した小川九郎兵衛と、阿豆佐味天神社の神主の宮崎主馬が、寛文年間に小川村名主の屋敷内に遷祀し、その後小川新田の開拓を行うのに先立って、その守護神として、宝永元年(1704)に榎の大樹のもとに祠を建立し遷座したものと伝えられています。
社殿正面には、一対のケヤキの大木がそびえています。「夫婦欅」と呼ばれ、夫婦円満の象徴だそうです。樹齢約300年で、小平市の天然記念物に指定されています。

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元々、ここには、1本のエノキの巨木が聳え立っていました。往時この一帯は、人家が1軒もない荒漠たる武蔵野の原野でした。水の便が非常に悪い場所で、「逃水の里(にげみずのさと)」と言われていました。そのような原野の中にあって、この巨木は、「武蔵野の一本榎」と呼ばれ、街道を往来する人々の良き目印や一時の休息の場になっていたと伝えられています。
一本榎は、社殿の裏手にありますが、現在のものは、樹齢約100年の3代目の孫木だそうです。
この近くには、もう少し詳しい縁起の説明板がありました。光線の影響で一部文字が読めませんが、同じ内容が下の参考資料にあります。

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参考資料:
熊野宮について(熊野宮のホームページ)
小平熊野宮(猫の足あと)
武蔵野乃一本榎(東京都神社庁)

熊野宮の参道を青梅街道に戻ります。
青梅街道を少し行くと、小川用水の南側の水路は流れを北側に向きを変えます。

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⑧ 南北水路合流点
青梅街道を横切った水路は、北側の水路と合流します。ここから先は、暗渠になって、水路は見えませんが、さらに青梅街道に沿って、回田道まで行き、回田道に沿って北に向きを変えます。

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⑨ あじさいの小径 / 小川用水の築樋【100選】
回田道は、嘗て、天神窪と呼ばれた窪地の縁を通っています。小川用水は、回田道に沿って流れています。窪地を通る部分は、築樋(つきどい)と呼ばれる盛土をして流していました。回田道の拡幅工事の時に、水路は地下に埋められました。
西武線の踏切の手前に、あじさいの小径の看板があります。ここで、小川用水は再び地上に現れます。地下を流れて来た水は、サイフォンの原理により、湧き出すように地上に流れ出ます。水路は、あじさいの小径と呼ばれる遊歩道に沿って西に流れて行きます。
あじさいの小径は、天神窪の南側の縁に位置していて、ここも築樋としてつくられた部分です。

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あじさいの小径の中間部分に、北に斜めに行く、水路跡のような小径があります。悪水堀と呼ばれた、天神窪に溜まった水を排水する水路の跡だと思われます。

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参考資料:
窪地が生んだ小平の名所(小平市報(No1485)(P3))

⑩ 小平あじさい公園
あじさいの小径と狭山・境緑道に囲まれた低くなっている部分は、天神窪の西端で、小平あじさい公園となっています。小川用水は、公園の南側と西側を回って、北に流れて行きます。

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小川用水は、狭山・境緑道を横切り、西武線の下をくぐって北に流れて行きます。

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西武線の北側に向かいました。
西武線の踏切を渡って、回田道を北に行き、東京街道を西に折れます。少し行ったところで、小川用水の流れに出会います。小川用水は、東京街道に沿って西に向かい、小平駅の北側のあたりで北に折れ、再び東に戻ってきます。

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⑪ 百日紅の小径
我々は、その通りには歩かず、途中で北に行ったところで、戻ってきた水路に出会いました。小川用水は、北に折れて流れて行きます。このあたりの小川用水は、開渠になっていて、サルスベリが水路に沿って植えられていて、「百日紅の小径」と名付けられています。

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水路はさらに北に流れて行きますが、我々は、北には行かず、南に戻りました。

⑫ 清風親水エリア
西武線を北にくぐった少しのところは、「清風親水エリア」と名付けられています。水路に沿って木製の階段がつくってあって、水路に近づけるようになっています。

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今回は、ここから小平駅まで戻りました。

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⑬ 花の小径
百日紅の小径から、小川用水はさらに北に向かい、小平霊園にぶつかったところで、斜め右に折れます。ここからまた、水路は開渠になり、「花の小径」と名付けられています。別の機会にここまで歩いてみました。

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2022年07月13日

玉川上水&分水網遺構100選ウォーク(第8回)

「玉川上水・分水網を生かした水循環都市東京連絡会」が「市民が選んだ玉川上水と分水網の関連遺構100選」として2020年1月のシンポジウムで正式に選定された地点を実際に歩いています。2022年7月11日の第8回は、小川用水を新堀用水の分岐口から小川寺を経由して小平神明宮まで歩きました。
今回のルートです。

小川用水は、明暦2年(1656)、玉川上水の開削(1653)から3年後に開削されました。玉川上水の分水の中では野火止用水(1655開削)に次ぐ早いものです。小川村の開発は、明暦2年(1656)に、当時岸村に住んでいた土豪小川九郎兵衛が、代官今井八郎左衛門に開発を願い出たことからはじまります。

この地域は、青梅街道の田無や箱根ヶ崎など、七か所へ向かう道が走る交通の要衝でありましたが、人家もなく、天候次第では往来する人馬が喉の渇きにより、行き倒れてしまうことも多くありました。九郎兵衛は明暦2年に、各方面への伝馬継ぎ(てんまつぎ)を勤めること、そして、往来する人馬の助けとなるよう、自らの私財を投じて新田を開発することを、今井八郎左衛門に願い出て、容れられ、その後、老中の松平伊豆守信綱(川越藩主)から、西は玉川上水と野火止用水の分岐点より、東は田無方面へ開発するように指示されました。飲み水の入手が困難であった当地の開発に際し、まず最初に手掛けられたのが、小川用水の開削でした。

小川用水の分水口は2度ほど付け替えられており、当初は玉川上水の400mほど下流、東小川橋付近にあり、玉川上水から直接取水されていました。文化4年(1807)に反対の上流側100mほどの場所に付け替えられ、明治3年(1870)に玉川上水の通船計画に基づく分水口改正(統合)により、新堀用水が開削され、新堀用水からの分水に改められたとき、現在の場所になりました。

参考資料:
小川用水1(川のプロムナード)
小平市史~小川九郎兵衛の開発願い~(こだいらデジタルアーカイブ)

玉川上水の南側から小川橋を見たところです。

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① 小川用水取水口【100選】
小川用水の取水口は、新堀用水の小川橋の下、上流側の際にあります。夏のこの時期は笹が生い茂って見通せませんでした。下の写真は2月に撮ったものです。

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小川用水は立川通りに沿って、北に流れます。立川通りを少し歩くと、水路が現れます。

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このあたりの水路は深いです。小川橋の近くに新堀用水の胎内堀があるくらいですから、標高が少し高いのでしょう。

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② 彫刻の谷緑道【100選】
150mくらいの区間ですが、「彫刻の谷緑道」という水路に沿った遊歩道があります。水路の中や斜面のところどころに彫刻が野外展示されています。

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水路の際にハンゲショウが群生していました。

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参考資料:
彫刻の谷緑道(たまろくナビ)

③ 緑と心・ふれあいの林
緑道を過ぎて少し歩くと、「緑と心・ふれあいの林」という雑木林があります。ここまでくると、水路はだいぶ浅くなります。

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立川通りに沿った小川用水です。普通の水路になりました。

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上宿小学校を過ぎたところで、水路は立川通りから左に直角に折れ、青梅街道に向かいます。

④ 南北分岐の水門【100選】
青梅街道に出たところに水門があって、小川用水は、青梅街道の南北に分かれて流れます。

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北側に行く水路は、青梅街道を横切り、クロネコヤマトの脇を流れて少し行ったところで右に折れ、青梅街道に平行して流れて行きます。

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⑤ 魁(さきがけ)の流れ【100選】
南側の水路は、150mほど青梅街道に沿って流れます。「魁(さきがけ)の流れ」と名前がついています。

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けやき通りを渡ったところ、けやき通りに面して、青梅街道から立川通りまで、小川緑地と児童公園になっています。小川用水は、青梅街道に沿って、小川緑地の脇を流れ、緑地の先で直角に折れ、緑地の縁に沿って屋敷の中を流れます。用水の水は一部緑地の中に流れ込んでいます。

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⑥ 小川緑地
小川緑地の中に入った用水の流れで、ビオトープのような水辺が作られており、小川用水に戻ります。少し小高い林のようなものも作られています。

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⑦ 日枝神社
小川緑地を抜けて、立川通りに出ました。この先、立川通りが青梅街道にぶつかる少し手前に日枝神社があります。「1658年(万治元年)山王宮の神主山口大和守求馬が小川九郎兵衛と協力し、江戸麹町(現千代田区永田町)の日枝神社を分祠、日吉山王宮として祀ったもの」と説明板にありました。

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参考資料:
小川日枝神社(猫の足あと)

小川用水は、日枝神社の裏を抜けて、立川通りに出てきます。

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小川用水は、立川通りを横切り、向かいの農園に入って行きます。野菜を直売しているので、少し入らせていただきました。水路は農園の中を流れ、先へと行きます。

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⑧ 竹内家の大けやき
再び立川通りを歩きます。青梅街道にぶつかる三叉路の少し手前を、大けやき通りに少し入ると、「竹内家の大けやき」があります。樹齢300年以上で、小平市の天然記念物第1号だそうです。近くに説明板が設置されていました。
小川用水は、大けやきのすぐ下を流れて来ます。

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参考資料:
竹内家の大けやき(小平シニアネットクラブ)

⑨ 小川寺
青梅街道に戻って少し歩くと、小川寺があります。
明暦2年(1656)、小川村開発と同時に、小川九郎兵衛が、江戸市ヶ谷河田町の月桂寺住職・雪山碩林大禅師を勧請し、開山として建立した寺院です。入口に説明板が設置されていました。

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山門を入ってすぐに、馬頭観音の四角い石柱があります。脇には、文化15年(1818)と彫られているのが見えます。

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境内には、現役の梵鐘の他に、小平市の有形文化財となっている梵鐘があります。貞享3年(1686)に鋳造され、小川寺檀家57戸から寄進されたものです。小川九郎兵衛没後18年に当たります。説明板が設置されていました。

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参考資料:
小川寺(小平シニアネットクラブ)

⑩ 小川九郎兵衛墓
小川寺の境内を抜けて、墓地の入口に、小川九郎兵衛の墓があります。九郎兵衛は、没後岸村の禅昌寺に葬られましたが、後に分骨され、ここに墓が作られました。説明板が設置されていました。

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小川用水は、小川寺の境内の裏と墓地の間を流れて行きます。

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小川寺の前の青梅街道を北側に渡ります。
小川用水の北側の流れは、小平神明宮の参道を横切って青梅街道に沿って流れています。

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⑪ 小平神明宮
明暦2年(1656)、小川九郎兵衛により、小川村の開拓願いと共に神明宮の勧請が発願されました。5年後の寛文元年(1661)に、多摩郡殿ヶ谷村(現在の瑞穂町)の阿豆佐味天神社の摂社で岸村神明ヶ谷の神明社を勧請し、社殿を造営、小川村の総氏神としたのが小平神明宮の始まりです。説明板が設置されていました。
大祓の神事は6月末に行われますが、茅の輪がまだ残っていました。

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境内には、本殿の他に、東殿と西殿があり、御主神の他に、合わせて10社祀られています。御主神と10社の説明がありました。興味がある方はご覧ください。

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境内で、御神饌用のイネが栽培されていました。コシヒカリだそうです。赤米ではなかった。

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参考資料:
小平神明宮(小平シニアネットクラブ)

⑫ 八雲せせらぎ水辺【100選】
小平神明宮の参道を挟んで、小川用水の上流側と下流側の一部は、青梅街道に沿って、ちょっとしたせせらぎになっています。「八雲せせらぎ水辺」という名前がついています。

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今回のウォークはここで終了。近くのバス停から小平行のバスに乗りました。

おまけに、歩いている途中で見つけた植物を紹介します。

彫刻の谷緑道に咲いていたのは、ヒトツバハギ(一つ葉萩)でしょうか。ハギの葉に似ているからとのことですが、秋の七草のハギとは関係ありません。雌雄異株で、これは雄花のようです。

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小川寺の境内にコノテガシワの若い実が付いていました。ヒノキの仲間で、葉が、子供が手のひらを垂直に立てたような形なので「児の手ガシワ」と呼ばれるようになったそうです。ところが、漢字で書くと「側柏」。これは中国名から。中国ではヒノキの仲間を「柏」と書くらしい。

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2022年04月08日

玉川上水&分水網遺構100選ウォーク(第7回)

「玉川上水・分水網を生かした水循環都市東京連絡会」が「市民が選んだ玉川上水と分水網の関連遺構100選」として2020年1月のシンポジウムで正式に選定された地点を実際に歩いています。2022年4月7日の第7回からは、玉川上水から分水網に移ります。熊川分水を玉川上水の取水口から終端まで歩きました。今回のルートです。

熊川分水は、寛政3年(1791)に工事の願いが出されましたが実現せず、その後約100年後の明治19年にようやく許可が下り、3年の歳月と総額一万円余の費用をかけて明治23年1月に完成しました。石川弥八郎を始めとする熊川地区の実業家3人が費用の70%を負担しました。
熊川神社の入口近くの水路脇に説明板があります。(平成18年設置平成31年設置

参考資料:
熊川分水(川のプロムナード)
玉川上水今むかし~熊川分水~(武陽ガス)
熊川分水(玉川上水事典)

① 熊川分水取水口【100選】
牛浜駅から玉川上水の下流の方に歩き、ほたる通りの青梅橋から上流の方を見ると、その先に熊川分水取水口が見えます。熊牛稲荷のすぐ脇のところです。

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② 料亭幸楽園【100選】
取水口で玉川上水から分れた熊川分水は、すぐに料亭幸楽園の敷地の中に入ります。ほたる通りを歩いて、奥多摩街道にぶつかる手前の料亭幸楽園の入口の駐車場の脇で、熊川分水は顔を出しますが、再びほたる通りの下へ潜って行きます。

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熊川分水は拝島段丘面の上を崖線に沿って流れています。
ここで、熊川分水から離れて、奥多摩街道を渡り、崖線を下りてみました。クランクの坂を下りると、崖線下はせせらぎ通り。それに沿って「下の川」という小川が流れています。熊川分水はやがてこの川に流れ込みます。

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③ ほたる公園
崖線下、数10m上流に「ほたる公園」があります。公園内にホタル飼育のための大きなドームがあります。昭和40年に玉川上水でゲンジボタルが自然発生したのを契機に飼育する活動が始まったのだそうです。公園内に説明板が設置されていました。ホタル公園は下の川のほぼ源流に位置します。

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参考資料:
ほたる公園(福生市ホームページ)

再び坂を上って崖線上に戻ります。
奥多摩街道に沿って歩き、五日市線の踏切の手前の路地を入ると、熊川分水が顔を出していました。「福生市景観重要資源第1号(熊川分水)1番」の表示があります。

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熊川分水は、奥多摩街道を斜めに横切って、線路の下を通って、まっすぐ流れて行きます。こちらは、踏切を渡って、右の路地に入ります。

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道なりに歩くと、熊川分水は、都有地の中で顔を出します。

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④ 片倉跡地
熊川分水は、都有地の隣の広大な空き地の中を流れています。地図上では「片倉跡地」とありますが、ここはかつて、森田製糸所があった所で、その後、片倉製糸に引き継がれて戦時中まで事業が行われていたそうです。

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参考資料:
片倉跡地(福生市郷土資料室)
森田浪吉(福生市郷土資料室)

片倉跡地の向かいの路地の角に「福地蔵」がひっそりと安置されています。

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消防署の正面に沿ってぐるっと回って片倉跡地の向こう側に出ると、熊川分水は跡地を抜けて出てきて、その後は住宅の間を流れて行きます。

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⑤ 福生院
そこからすぐの所に、福生院(ふくしょういん)があります。山門の脇の枝垂れ桜はだいぶ散ってしまいました。
福生市のホームページには、「鎌倉五山寿福寺派。寺伝によれば応永18年(1411年)開山。足利四代将軍足利義持を開基として創建されたと伝えられています。」と紹介されています。
ここには、この地区を治めた徳川幕府の旗本・長塩氏の墓があり、福生市の史跡に指定されています。その他の福生市指定の文化財について、説明板がありました。

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参考資料:
福生の名刹(寺院)と分水(福生市ホームページ)
福生院(Portal Tokyo)
長塩正家(福生市郷土資料室)

⑥ 伝 地頭井戸
福生院の前の熊川通りを少し歩くと、「伝 地頭井戸」があります。長塩氏が、水不足に悩む領民のために井戸を掘り与えたという伝承があります。説明板がありました。

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参考資料:
伝 地頭井戸(福生市郷土資料室)

すぐ脇の路地を入って突き当たりの道に、熊川分水が顔を出します。ここに、「2番」の表示があります。ここから先しばらくは、熊川分水は、道に沿って水路となって流れていて、風情のある景観を作り出しています。

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熊川神社の入口近くまでやってきました。

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⑦ 熊川神社
創建年代は不詳ですが、平安時代初期、多摩川で産鉄を営んでいた部族が、鉄神として白蛇神(宇賀神)を祀った礼拝塚(糠塚)が起源といわれています。本殿は、東京都指定有形文化財(建造物)に指定されています。その他の福生市指定の文化財について、説明板がありました。

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参考資料:
熊川神社(神社と御朱印)

この先も道に沿って水路は続きます。

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⑧ 洗い場の跡
熊川通りに合流する少し手前に、暗渠となった水路の一部があいていて石段で下りられるようになっています。水洗い場の跡でしょうか。

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熊川分水は、睦橋通りを渡って、稲荷社の手前を右に折れて屋敷の間を流れて行きます。

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⑨ 石川酒造【100選】
熊川分水は石川酒造の敷地の中を流れます。

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⑩ 南稲荷神社
石川酒造を出たところに南稲荷神社があります。境内にそびえる大ケヤキは、福生市指定の天然記念物に指定されています。境内には、膳椀倉があります。中に保管されている膳椀とともに、東京都の有形民俗文化財に指定されています。

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参考資料:
南稲荷神社境内のケヤキ(福生市郷土資料室)

石川酒造を出た熊川分水は、ほどなく終端を迎えます。

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⑪ どうどうの滝
熊川分水は、終端の「どうどうの滝」を流れ落ちて、崖線下を流れる「下の川」に流れ込みます。

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⑫ 福生南公園
崖線下は広い「福生南公園」になっています。ここで昼食にしました。

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今回のウォークはここで終了。睦橋通りに出て、拝島駅まで歩いて戻りました。

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2022年01月21日

玉川上水&分水網遺構100選ウォーク(第6回)

「玉川上水・分水網を生かした水循環都市東京連絡会」が「市民が選んだ玉川上水と分水網の関連遺構100選」として2020年1月のシンポジウムで正式に選定された地点を実際に歩いています。2022年1月20日の第6回は、吉祥寺駅から井の頭公園を経由して、ほたる橋から開渠の終端の浅間橋まで、玉川上水に沿って歩きました。
今回のルートです。

① 井の頭公園【100選】
吉祥寺駅を出発して、井の頭公園の池を右回りに上流の方に歩きました。

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野口雨情碑があります。この碑は、1952年に東京雨情會が建立したものだそうです。碑には「井の頭音頭」の一節「鳴いてさわいで日の暮れごろは葦(よし)に行々子(よしきり)はなりゃせぬ」と刻まれています。
地元出身の歌手サニーたけしさんが歌ったYouTubeがありました。お聞きください

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そのすぐ先、池の上流側の端に「お茶の水」と呼ばれる湧水があります。井の頭池の水源の一つでしたが、現在は、ポンプで地下水を汲み上げているそうです。名前の由来は、鷹狩りに来た徳川家康が、水を汲んで、お茶を点てたという伝説からだそうです。

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ここから玉川上水の方に向かいます。途中に御殿山と呼ばれる雑木林があります。
説明板によれば、縄文時代の竪穴住居跡発見されたところとあります。
御殿山の名前の由来は、徳川家光が鷹狩りをした時の仮宿舎がこの高台にあったことからとか。

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寒い日でしたが、気の早い梅の花がちらほら咲き始めていました。

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参考資料:
サニーたけし「井の頭音頭」を唄う(久我山会)
家康とお茶の水(井の頭公園・豆知識99)
御殿山遺跡(Wikipedia)】【井の頭池遺跡群(武蔵野History)

前回訪ねた「松本訓導殉難の碑」の脇を通って、玉川上水の「ほたる橋」に出ました。
ほたる橋から下流を見た玉川上水です。

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② 牟礼分水取水口・分水堰
ほたる橋のすぐ下流のところに、牟礼分水取水口跡があります。説明板によると、「牟礼分水は湧水に頼っていた不安定な農業用水を補給する目的で、延享2年(1745)に江戸幕府へ出願し許可されました」とあります。牟礼(無礼)村1ヶ村のための分水で、玉川上水の分水としては異色の存在です。

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参考資料:
川のプロムナード】【imakenpressブログ

緑道の傍らの住宅のロウバイが咲き始めています。まだ丸い蕾がほとんどです。

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少し下ると「新橋」があります。この橋の10mほど下流の水面で、入水した太宰治の遺体が発見されたそうです。入水したと思われる場所から1.1kmほど下流です。当時はかなりの水量があったと思われます。

松影橋の下流、右岸側に法政大学中学高等学校に隣接して玉川上水緑道の雑木林があります。ここでもナラ枯れの被害が出ているようで、粘着シートが巻いてある木が何本かありました。

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③ 法政大中学高校の門柱
そのすぐ先に学校の校門があります。ここは以前、東京女子大学があったところで、門柱は、1954年にカナダ人宣教師A.R.ストーン先生が東京神学大学に寄贈したものだそうです。先生は1954年の青函連絡船「洞爺丸」の海難事故の際、婦女子を助けて自ら犠牲になりました。その愛と魂を顕彰して門柱を保存しているとのことです。

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井の頭橋から玉川上水の左側を歩きました。ところどころにベンチがあり、とても気持ちの良い散歩道です。

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宮下橋の少し先にある小さな緑地で小休止。

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さらに500mほど歩いたところに架かる橋は、「長兵衛橋」です。名前から何か歴史的な背景があるかと調べてみましたが、殆どありませんでした。牟礼村の村長だった長兵衛さんが自費で架けたということです。

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長兵衛橋から下流を見た玉川上水です。

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④ 「牟礼橋」と「どんどん橋」【100選】
その先100mほどで、人見街道にぶつかります。ここに架かるのが「牟礼橋」です。この上流側に「どんどん橋」という古い小さな石橋があります。自動車が通る今の人見街道になる前は、こちらが「牟礼橋」で、府中に通じる主要な道でした。
傍らに石橋建立供養之碑が建っていて、宝暦7年(1757)の刻印があり、それまでの板橋を石造に架け替えた旨が記されているそうです。現在の橋は、昭和8年(1933)に架けられたらしい。
「どんどん橋」の名前の由来は橋の下を流れる玉川上水の水が「どんどん」と音をたてて流れていたとか、昔は木の橋だったので橋を渡ると「どんどん」という音がしたとか諸説あるようです。

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参考資料:
武蔵野・多摩MTB散歩】【Broの肖像(玉川上水 どんどん橋)
人見街道 旧牟礼橋(どんどん橋)旧道

玉川上水は、井の頭公園あたりからこの付近まで、大きく蛇行して流れています。井の頭池は、武蔵野台地の扇状地の端に位置していて、この付近から傾斜が緩くなります。玉川上水は、少しでも標高の高い所を選んで水路を引いたため、このように曲がりくねったと、説明板にありました。

⑤ 庚申供養塔
牟礼橋を杉並区側に渡った、丁度、三鷹市と杉並区の境のところ、大きなケヤキの木の下に人見街道に背を向けて庚申供養塔が祀ってあります。元禄13年(1700年)造立と彫られています。牟礼橋のところで、2019年に開通した東八道路が接していて、歩道が新しくなっています。庚申供養塔が昔のままの場所にあるのか分かりません。

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牟礼橋から下流は、新しくできた東八道路の上下線の間を流れ、遊歩道が新しく整備されました。ここから右岸側を歩きます。

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⑥ 久我山水衛所跡
しばらく歩いてゆくと、兵庫橋の少し手前に久我山水衛所跡があります。

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⑦ 水難者慰霊碑【100選】
その少し下流に水難者慰霊碑が建っています。柵の中なので、碑の裏側は見えませんでしたが、金田一京助先生による、投身自殺した愛娘への弔歌が刻まれているそうです。
「うれひなく さちかきりなき あめのくにに
  さきそひいませ とはやすらかに   金田一京助
        昭和廿七年十二月 杉並文化新聞社建之」
とあるそうです。

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参考資料:
人喰い川紀行・玉川上水

兵庫橋の次は岩崎橋です。すぐ近くの「玉川上水緑道公園」で昼食にしました。

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⑧ 烏山分水口跡・上北沢村分水口跡
岩崎橋の左岸の下流側に説明板があります。説明板によれば、昭和14年(1939)に、近くに岩崎通信機が移転してきたので、この名前に変わったとのことです。説明板には、嘗ての分水口の写真もありました。

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烏山用水は、烏山川の流量を増やすために、烏山村の農民が幕府に請願し、万治2年(1659)に開削されたとされます。下流で烏山川と合流し、烏山村など流域10村に補給されていました。

北沢分水のほうは、北沢川の流量を増やすために、万治元年(1658)に引かれたとあります。当初は、「上北沢分水」と呼ばれましたが、後に北沢川とあわせて「北沢用水」と呼ばれるようになったとのことです。北沢用水の分水口は、当初はもっと下流にあったらしいですが、明治4年(1871)の玉川上水通船のための分水口統合の際に、現在の岩崎橋付近に移されたそうです。

草に隠れて見えづらいですが、岩崎橋の上から下流側のすぐのところに烏山分水口跡が見えます。その数10m先に、上北沢村分水口跡と堰の跡があります。

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参考資料:
烏山川 1(川のプロムナード)
北沢川源流域/北沢分水を辿る(1)(東京の水 2009 fragments)
玉川上水今昔】【上流より見た烏山分水口(東京都水道局)

⑨ 開渠終端(浅間橋)【100選】
次の橋は浅間橋。ここで、玉川上水は地下に潜ってしまいます。東京都水道局のホームページによれば、「浅間橋で暗渠に入った清流の終末は、京王井の頭線高井戸駅付近で神田川に放流されている」とあります。

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参考資料:
玉川上水の現況(東京都水道局)

今回のウォークはここで終了。富士見ヶ丘駅まで歩いて解散しました。

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2021年11月08日

玉川上水&分水網遺構100選ウォーク(第5回)

「玉川上水・分水網を生かした水循環都市東京連絡会」が「市民が選んだ玉川上水と分水網の関連遺構100選」として2020年1月のシンポジウムで正式に選定された地点を実際に歩いています。2021年11月8日の第5回は、武蔵境駅から独歩の森を経由して、うど橋から井の頭公園まで、玉川上水に沿って歩きました。今回のルートです。

① 独歩の森【100選】
独歩の森を含む全体の正式名称は境山野緑地と言います。武蔵野の森を育てる会という市民団体が武蔵野市と協力して保全活動をおこなっています。
最近、この森でもカシノナガキクイムシによりコナラやクヌギが枯れる被害が発生して問題になっています。この日訪れた時にも、枯れ木が目立ちました。幹にプラスティックフィルムを巻いたり、トラップをつけたりして、被害の拡大防止に努めています。

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参考資料:
武蔵野の森を育てる会(境山野緑地(独歩の森)の紹介)

② うど橋と独活の碑
独歩の森から少し北に歩くと玉川上水のうど橋に出ます。うど橋の傍らに石碑がありますが、刻んだ文字が薄くなっていて全く読めません。後でネットで調べてみたら、独活の碑だということで、この地のうどの栽培の歴史と「うど橋」命名の由来が書かれているそうです。「うど」は武蔵野市の特産品だということです。

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参考資料:
東京ウドを日本一に(農林水産・食品産業技術振興協会)

うど橋の次は「独歩橋」です。

③ 国木田独歩文学碑
少し下流に歩くと、境浄水場正門前の通りに出ます。そこに架かる桜橋の傍らに『国木田独歩文学碑』があります。碑には国木田独歩の『武蔵野』の中で桜橋が記述されている一節が刻まれています。

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参考資料:
国木田独歩の碑(武蔵野市観光機構)
桜橋(玉川上水今昔)

桜橋の広い道を渡った玉川上水の岸に大きなイイギリが赤い実を付けていました。

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④ 品川用水取水口跡
桜橋から少し行ったところに品川用水取水口跡があります。ちょうど武蔵野市立第六中学校の前にあたります。品川用水は、玉川上水の南側を現在の武蔵野市立第六中学校の敷地の中を抜けて三鷹駅の方に流れていました。
そこに立っている説明板には、「品川用水は、旱魃に悩まされていた品川領内九つの宿や村の農業用水として、寛文九年(1669年)に開通しました。」とありますが、文献によると、正確な時期は不明ですが、かなり早い時期に、「仙川用水」として、仙川組四ヶ村(現在の三鷹市と調布市の一部)の水田を潤す用水路として開削され、その後1663年から1664年にかけて、「戸越上水」が、品川領戸越にあった熊本藩細川家の下屋敷(現在の戸越公園)の庭内の泉池の用水として、仙川用水から分水するかたちで開削されました。
戸越上水は、わずか2年後の1666年に廃止されてしまいましたが、その後、上の説明板の記述にあるかたちで復活しました。その時、玉川上水からの分水地点から全体が、品川用水として扱われることになったとのことです。

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この季節、護岸に草木が茂ってよく見えませんが、春先に歩いた時には、下の写真のような様子でした。

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参考資料:
品川用水(ウィキペディア)
謎解き仙川用水その1 (東京の水 2009 fragments)

松実橋から下流を見た玉川上水です。ここでは、流れが良く見えます。

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少し下流のいちょう橋の手前に「大橋」が架かっています。その歴史について説明板がありました。古くは、北の田無方面と南の調布方面を結ぶ主要な道だったそうです。

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⑤ ぎんなん橋と中島飛行機引込線橋台跡
境浄水場の東の端の都道に架かる大きな「いちょう橋」の脇に歩行者と自転車専用の「ぎんなん橋」が架かっています。ぎんなん橋の場所には、かつて、中央線から中島飛行機株式会社の武蔵野工場(現在の武蔵野中央公園)まで引き込み線が通っていて、橋台跡の上にぎんなん橋が架けられました。
この季節、護岸に木が茂っていて、橋台跡を見ることはできませんでした。ここに設置してある説明板で遺構を知ることができるだけです。

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下は春先に撮った写真です。橋台跡が少し見えます。

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参考資料:
武蔵野市に残る中島飛行機引込線橋台跡「ぎんなん橋」

西久保公園で休憩です。

⑥ 石造庚申供養塔
三鷹通りの大きな交差点のけやき橋の傍らにひっそりと庚申供養塔が祠に納まっています。説明板によると、1729年(享保14年)のものだそうです。

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庚申供養塔の左側面に「観世音」と刻まれた石塔があります。「月山」「湯殿山」「羽黒山」と刻まれた文字が読めます。

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けやき橋から三鷹駅南側までの間、玉川上水は暗渠になります。
けやき橋から三鷹駅まで、玉川上水の上に人工のせせらぎがつくられています。歩いた時は、残念ながら、水は流れていませんでした。水がないと寂しい感じです。

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三鷹駅の南北通路を抜けて、南側に出ました。

⑦ 旧三鷹橋の親柱、高欄
三鷹駅の南口を出たすぐのところに、三鷹橋が架かっています。これは、2005年(平成17年)3月に架け替えられたものですが、旧三鷹橋の親柱 、高欄 のデザインが活かされています。因みに、旧三鷹橋 は1957年 (昭和32年)6月に、構造材の一部に鉄道のレールを活用して架けられました。それまで、三鷹駅には北口しかありませんでした。旧三鷹橋 の一部が保存されています。その傍らに説明板あります。

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参考資料:
三鷹駅南口・三鷹橋(玉川上水今昔)

⑧ 風の散歩道【100選】
三鷹駅南口から井の頭公園まで、玉川上水の三鷹市側の遊歩道は、「風の散歩道」と呼ばれています。

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参考資料:
風の散歩道(みたかナビ)

⑨ 太宰治入水の地&玉鹿石
風の散歩道を歩いて、むらさき橋の少し手前に、太宰治の入水の地を示す表示板があります。小説「乞食学生」の一節が記されています。
また、その少し先に、玉鹿石があります。玉鹿石は、太宰治の出身地である青森県北津軽郡金木町から産する石で、青森県の天然記念物に指定されています。

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参考資料:
太宰治を巡って(東京紅團)
玉鹿石(ぎょっかせき)(ものと素材、こころと身体)

⑩ 犬むすびの松
むらさき橋を北側に渡って、少し戻ったところに、「犬むすびの松」があります。このあたりには、田畑の作物を荒らす動物を退治してくれるオオカミを「山犬様」と呼び、神様としてお祀りした言い伝えがあったそうです。説明板が立っています。

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参考資料:
犬松の宮(いぬまつのみや)跡(来福@参道)

むらさき橋を渡って戻ります。むらさき橋の名前の由来の掲示がありました。

井の頭公園に着きました。吉祥寺通りに架かる橋は、萬助橋です。名前の由来の掲示がありました。

玉川上水を渡って、井の頭公園の中を玉川上水に沿って歩きます。

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⑪ 松本訓導殉難の碑【100選】
玉川上水に近いところに「松本訓導殉難の碑」があります。1919年、東京永田町の小学校の児童が秋の遠足に来た時、一人の児童が玉川上水に落ちたのを救おうとして殉難した松本訓導の行為を顕彰するために建てられたものです。

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井の頭池まで歩いて、ちょうどよいあずまやがあったので、ここで、昼食にしました。

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⑫ 井の頭池(神田川の始まり)【100選】
井の頭公園に入って、池をぐるっと回って、最下流の神田川の始まりのところまで来ました。

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ここで一応ゴールですが、その後、ぶらぶら吉祥寺駅まで歩きました。

池の畔に大きな木が紅葉しています。メタセコイアに見えますが、実の形から、ラクウショウ(落羽松)かもしれません。

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2020年02月27日

玉川上水&分水網遺構100選ウォーク(第4回)

「玉川上水・分水網を生かした水循環都市東京連絡会」が「市民が選んだ玉川上水と分水網の関連遺構100選」として2020年1月のシンポジウムで正式に選定された地点を実際に歩いています。2月27日の第4回は、西武多摩湖線のところの桜橋から玉川上水に沿って下流へ歩きました。今回のルートです。

① 八左衛門橋と稲荷神社
桜橋のすぐ下流に八左衛門橋があります。『八左衛門橋』の名称は、旧小川新田組頭の滝島八左衛門が架けたことによるものです。詳しくはこちらをご覧ください。
八左衛門橋のところ、五日市街道を挟んで南側に稲荷神社があります。こちらは現在小平市上水南町ですが、以前は、野中新田の飛地であり、堀端野中と呼ばれていました。元文元年(1736)に、堀端野中の鎮守の社として、勧請遷祀されたと伝えられています。
稲荷神社の境内に砂川用水が流れています。国分寺を流れる砂川用水は、小平市に入って、この境内を抜けたところで、殆どの流れが下水に流れ込み、事実上の終点になってしまっています。
砂川用水は、歩いた日は工事のため、水は流れていませんでした。写真は流れている日のものです。

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参考資料:
玉川上水(小平シニアネットクラブ)

② 新堀用水と鈴木用水の水門
新堀用水は、八左衛門橋のところで北側に斜めに折れ、再び開渠になります。玉川上水から少し離れた位置を喜平橋近くまで平行に流れます。
開渠になったところ。カモが用水の中を泳いでいました。

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山家橋と喜平橋の中間あたりに鈴木用水の分岐門があります。鈴木用水はここで北側に分かれ、国交大通りのところで暗渠になりますが、鈴木街道の方に流れて行きます。新堀用水の水は、この分岐から殆どの量が鈴木用水側に流れています。
鈴木用水は、今回の主題ではないので、詳しくは下の参考資料をご覧ください。

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参考資料:
【鈴木用水    (川のプロムナード)】
【鈴木用水  (1)(2)(3)  (東京の水 2009 fragments)】

ここからは、国交大通りから喜平町桜通りを通って喜平橋に出ます。喜平橋の橋名は、小平の新田開発の1つである堀野中新田の組頭であった喜兵衛さんの家のそばにあった橋ということから、喜兵衛橋という名が付いたそうです。現在は喜兵衛を喜平と変えて呼ばれています。橋の下流側歩道には、案内板があり、休憩するベンチなどもあり、ちょっとした広場になっています。
ここから玉川上水に沿って北側を歩き、次の小桜橋を南側に渡ります。

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③ 高杉水車と「ほっこぬき」【100選】
砂川用水は、玉川上水の南側を上水に平行に流れていました。
砂川用水は、小桜橋と茜橋の中程で地下に潜ります。丁度このあたりに「高杉水車」があったと思われます。高杉水車は、精米・精麦用で、砂川用水本流に直接仕掛けられ、南側に「く」の字型に余水や水車を止めるときに流す水路があったそうです。砂川用水がこの先しばらくの間、暗渠となっているのは、この水車の排水を「ほっこぬき」で流した名残とのことです。 ここには、現在も高杉商店があります。
さらに下流に歩いて、茜屋橋の南の新小金井街道を渡ると空地があります。その一角に、用水が見える開口部があります。これは、用水の泥上げなどをした作業用の穴です。空地の隣の農家のご主人に話を聞くことができました。昔はこのような穴が所々にあったが、水が流れなくなってから、不要だし、危険だということで、多くは塞がれてしまった、とのことでした。
新小金井街道から約200mのところで、用水は再び開渠になります。
茜屋橋の橋名は、以前この一帯で盛んに栽培されていた「茜草」(染料)の元締めの島田家を「茜屋」と呼んでいたことからだそうです。

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参考資料:
玉川上水ワンポイントガイド(No.6水車)】 【ほっこぬき(ちむくい)

④ 旧小金井分水口と小金井分水の水門【100選】
ここからさらに100m程行くと、玉川上水の脇から南東に斜めに行く道があります。ここに、江戸時代の小金井分水の取水口があったそうです。そして分水はこの道に沿って流れていました。ところが、明治3年(1870)に、玉川上水の通船が開始される時に、各分水が砂川用水から分水されるように統一され、この取水口は廃止されました。
この道を少し行くと、砂川用水があり、そこに小金井分水の水門の遺構があります。ここに説明板がありました。

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⑤ 名勝小金井桜の中心地【100選】
玉川上水に戻って、この先の貫井橋を渡ります。
玉川上水の北側の歩道を歩いて、小金井橋の手前に名勝小金井桜の碑があります。
小金井桜は、元文2年(1737)頃、八代将軍徳川吉宗の時代、幕府の命により川崎平右衛門が、大和の吉野や常陸の桜川など各地の桜の名所から種苗を取り寄せ、小金井橋を中心に玉川上水両岸の6kmにわたり植えたものです。
詳しい説明は、現地に説明板がありましたので、これをお読みください。下に参考の資料もリンクしてあります。

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参考資料:
小金井桜(武蔵野ヒストリー)】 【小金井桜(多摩めぐりの会)
小金井桜花の絵(武蔵名勝図会)

⑥ 海岸寺と小金井桜樹碑
小金井橋の少し上流側の五日市街道を北に渡ったところに海岸寺があり、その入口のところに小金井桜樹碑があります。
この碑文は、江戸時代の漢学者大久保忠休(狭南)が書いたもので、文化7年(1810)、門人等によりに建立されたそうです。小金井桜を植えた川崎平右衛門の業績を称えるとともに、桜の効用として、根が張り堤が崩れるのを防ぐ、春は花が人々の目を楽しませ、夏は街道の木陰になる、玉川上水を清潔に保ち、桜の花びら等が水毒を消すなどと記されています。
海岸寺は、この地の農民の熱心な要望により、元文元年(1936)、越中国泰寺の末寺で秩父郡三峰山の境内にあった海岸寺を引寺したものだそうです。
海岸寺山門は、天明3年(1783)頃、鈴木新田の大工の家に寄寓していた渡り大工が作ったものと言われています。鎌倉時代の禅宗様の建築様式が取り入れられており、小平市の有形文化財に指定されています。

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参考資料:
拓本「小金井櫻樹碑文」(小金井市・小金井桜のあゆみ(1))
海岸寺と小金井桜碑(小平シニアネットクラブ)

⑦ 行幸の松
玉川上水の歩道に戻って、小金井橋の手前に行幸の松とその碑があります。
明治天皇が観桜においでになった名誉を後世に伝えるために、地元鈴木新田の有志が御座所跡に植えたものだそうです。

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⑧ 小金井橋【100選】
小金井街道に架かる橋が小金井橋です。
南岸の下流側に説明のプレートがあり、歴史が詳しく述べられています。これによると、小金井橋の歴史は古く、承応2年(1653)、玉川上水が開かれた時に架けられたと思われるとあります。小金井堤が桜の名所になると、多くの絵画や写真の題材となっています。
昭和5年(1930)に近代的なレンガ造のアーチ橋に架け替えられましたが、平成20年(2008)、都道拡幅により撤去され、レンガと要石の一部がモニュメントとして残されています。
モニュメントの脇に小さな水神の祠があります。

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下は、小金井橋の上から下流を見たものです。左側の護岸の太い樹木が伐採され、ヤマザクラの苗木の補植が進められています。

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左岸の歩道を少し行くと、「御成の松跡」の説明板があります。天保15年(1844)、第13代将軍家定一行が花見に訪れた際、御座所を設けた場所に、里人が1本の黒松を植え「御成の松」と呼ばれたそうですが、平成6年(1994)に松喰虫の被害で枯れてしまい、伐採されたとのことです。現在同じ場所に松が植えられていますが、2代目でしょうか。

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陣屋橋に向かう途中の歩道です。歩道と玉川上水の間にヤマザクラの補植が進められています。

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⑨ 陣屋橋と陣屋跡
小金井公園の江戸東京たてもの園の入口のところに架かるのが陣屋橋です。

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江戸時代、近くに南武蔵野新田開発のための陣屋が置かれ、川崎平右衛門の手代の高木三郎兵衛が常駐していたとのことです。
陣屋があった場所は、たてもの園入口の道を入り、関野通りを右折した左手あたりにあったらしいのですが、今は全く痕跡がありません。当時は三方に土塁を築き、北側に用水堀(関野用水)や掘り抜き井戸もあったといわれています。

小金井公園に入って休憩です。
梅まつりに合わせて、売店「そば茶屋さくら」がリニューアルオープンしました。
梅まつりは終わりましたが、まだ梅はきれいに咲いています。

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⑩ 真蔵院・川崎平右衛門供養塔
小金井公園の正面入口の道から関野通りを西に少し入ったところに真蔵院があります。
その境内に川崎平右衛門供養塔があります。寛政7年(1795)に近隣の7新田(関野新田・鈴木新田・廻田新田・貫井新田・是政新田・小金井新田・田無新田)の農民が、川崎平右衛門の遺徳を偲んで建立したものです。
供養塔の正面に平右衛門の戒名が彫られており、左右側面には「願主および発起人」が書かれています。また、平右衛門の偉業の説明が掲示されています。
真蔵院の外の塀のところに説明板がありました。

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小金井公園正門のところから玉川上水に戻ります。
玉川上水と左岸の歩道の間のヤマザクラは平成25年に植えられたもので、だいぶ大きくなっています。

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⑪ 桜樹接種碑
関野橋から30mほど下った左岸には山型をした自然石の「桜樹接種碑」があります。嘉永4年(1851)3月に、田無村の名主下田半兵衛が建立したもので、正面には「さくら折るべからず 槐字道人」と彫られています。槐字道人とは下田半兵衛のことです。
小金井桜が植えられて100年余りが経ち、老木化が進んだので、嘉永4年(1851)、代官大熊善太郎が近隣の村むらに命じ、補植が行われました。裏面には「桜樹接種記」と題して、そのいきさつが記されています。

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参考資料:
関野橋と桜樹接種碑(庄司徳治コレクションより)
下田半兵衛・4(苗字のルーツは日本の歴史)

⑫ 旧千川上水分水口跡
左岸をさらに下って、あけぼの橋の少し手前に旧千川上水分水口跡があります。
千川上水の分水口は、開発された元禄9年(1696)以降、何度かその場所を変えていますが、明治4年(1871)から昭和41年(1966)まで、ここにありました。
現在の取水口は、境橋の交差点の玉川上水下流左岸の境水衛所跡のところにあります。
分水口から取り込んだ水は、五日市街道下り線の道路下に埋められたヒュ-ム管を伝わって境橋開口部に流れていたとのことです。
旧千川上水分水口跡の50mほど上流に、もう一つ取水口の跡があります。千川水道株式会社が、明治13年(1880)に増設し、明治40年(1907)まで使用されたものだそうです。下の最後の写真です。

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参考資料:
旧千川上水取水口跡(武蔵境散歩道)
千川水道(株)千川上水取水口跡(武蔵境散歩道)

⑬ 名勝小金井桜境石【100選】
境橋の上流側の両岸に名勝小金井桜の境界を示す石柱があります。
前回歩いた小川水衛所跡のところの両岸に西の境界石がありました。こちらは東の境界です。全く目立たず、ひっそりとありますが、健在でうれしいです。
いわれについては、こちらに述べられています。

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⑭ 境水衛所跡
境橋の下流側には境水衛所跡があります。
ここは、江戸時代には水番所として水番人が常駐して、玉川上水の管理をおこなっていました。明治維新後は、水衛所として、淀橋浄水場が廃止され玉川上水の通水が停止するまで、運用されていたとのことです。
水衛所の柵の下流側に現在の千川上水分水口があります。

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参考資料:
境水衛所跡(庄司徳治コレクションより)
境水衛所跡地と千川上水(武蔵野市観光機構)

ここから境橋バス停に戻り、今回のウォークのゴールです。