2018年01月24日

砂川用水物語(水路の変遷)

砂川用水物語を纏めて4編お届けします。
posted by m.ono at 22:15| 砂川用水物語 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

水路の変遷1 ~江戸初期の国分寺の湧水の状況~

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江戸初期の国分寺村に関する史料はないようです。この地図にある水色の線は、国分寺崖線から流れ出ている湧水の流れです。
崖線の下にある姿見の池は、古くからある湧水による池でした。エックス山からも湧水が湧き出していました。日立中央研究所の大池のあたりは、大正7年に今村銀行頭取今村繁三氏の別荘になるまでは、湧水が作り出した沼地であったようで、今でも大池には随所から湧き出た清水が注いでいます。
また、現在の国分寺の裏手や国分寺歴史資料館のある崖線からも清水が湧き出ており、真姿の池湧水群と呼ばれるお鷹の道沿いの湧水もあり、これら湧水は野川となって多摩川まで約20㎞を流れ下っています。
新田開発以前にはこの流れ一帯には豊富な湧水を使った田んぼが作られていたようです。
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水路の変遷2 ~国分寺に初めて用水が引かれる~

徳川幕府の新田開発奨励(1722年:享保7年)よりはるか以前の1657年(明暦3年)に、田用水として当時の国分寺村・恋ヶ窪村・貫井村(小金井市)3村に用水が引かれました。
それ以前、いつからか、国分寺崖線沿に多くあった湧水が崖線下に田んぼに適した土地を作りだし、何らかの形で稲作が行われていたのでしょう。しかし自然に依存している稲作でしたので、渇水期もあり、また湧水の温度が低く思うようには稲が収穫できなかったのでしょう。
先の3村が幕府に玉川上水から用水を引く計画を要望し、それが認められ、田んぼに引く水として「国分寺用水」「恋ヶ窪用水」「貫井用水」を村民挙げて開削したのです。

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玉川上水からの用水路取り入れ口は現在のところ正確には断定できないのですが、府中街道久右衛門橋上流から導水され、現在の府中街道脇を南に下り、恋ヶ窪交差点から連雀通り沿いに貫井村用水が開削され、恋ヶ窪村用水は、孫の湯通りに入ってすぐ南下し府中街道の東側を流れ、流末は姿見の池に合流したようです。
さらに、国分寺村用水は孫の湯通りに入って通り沿いを流れ、現在の日立中央研究所の東の道路沿いを南に下り、花沢橋のあたりをさらに南に下りまっすぐ野川に合流したようです。
この用水のお陰で、米作は大幅に増収となり、“国分寺市の今昔”にはよれば、恋ヶ窪・国分寺村の年貢は158石(俵約60俵相当)であったものが、用水開削後は約3倍の462石になったということです。
東元町にお住いの本多克己氏の昭和16年当時を回想したスケッチにも、国分寺崖線沿いにある東福寺や姿見の池周辺、野川沿いの現西元町~南町周辺は田んぼだったのです。(下の絵の緑色部分が田圃だったところです)。このような田園風景は国分寺の原風景です。

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国分寺のまちはこうして崖線下を中心に江戸時代発展を続けてきました。
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水路の変遷3 ~新田開発が始まる~

お江戸日本橋に幕府の新田開発奨励の高札がたてられたのは、享保7年(1722年)7月26日です。
徳川綱吉の時代(1680年~1709年)の28年間に元禄地震(1703年)宝永地震(1707年)とM8クラスの地震が相次ぎ、小田原の壊滅、江戸城の一部など多大な被害が発生し、天和の大火(1698年)による江戸の広い範囲の消失などが相次ぎ、その救済、復旧、復興のため幕府の供出金は膨大になり、江戸幕府は財政的にひっ迫していたようです。
江戸の人口も慶長14年(1609年)に江戸を訪れたロドリゴ・デ・ビベロは15万人と伝えていますが、1722年には520,000人を超し、大岡越前によれば毎年1万人程度(江戸人口の2%)の伸びと予想されていたようです。
財政ひっ迫と人口増加により幕府としては当時の貨幣制度である米石を増やす必要があり、コメの増収は必須なものであった思われます。幕府は武蔵野新田開発により12,000石の年貢を期待していたと国分寺のあゆみに記載されています。
幕府の奨励を受けて、3か月後の10月8日に野中新田開発の願書が提出され、享保14年(1729年)に野中新田分水が完成。同時期に中藤新田分水、翌年戸倉新田分水、享保17年(1732年)平兵衛新田分水と続々と分水が引かれたようです。 

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当時の国分寺の用水路はすべて玉川上水から直接導水されたのです。
用水は作られた後、玉川上水からの取り入れ口の付け替えなどがありこの地図通りではありませんが、ミズモリ団、美しい用水の会のメンバーが水路跡を観察しこの地図を作成しました。
こうした取り入れ口の変更は、その都度代官に報告され、どの様に改修するかを文書として名主が提出し、その開削作業は新田開発に携わった農家(当時は出百姓と言っていましたが)の方が行ったようです。
大変な苦労の末、飲み水・生活用水を確保していたのです。
posted by m.ono at 21:58| 砂川用水物語 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

水路の変遷4 ~そして、戦後の用水路~

新田開発奨励後用水がどの場所を流れていたかは、用水の跡地をこまめに追って調べるしかありませんが、ここで利用している昭和29年に行われた地番決定の地図に水路が画かれています。

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用水は明治3年大きな変化を迎えます。それまで玉川上水から直接導水していた中藤新田分水、野中新田分水、国分寺村分水が統合され、すべて砂川用水から導水することになりました。その際に問題になったのが、地図の左上に赤丸で囲った中藤新田分水でした。
中藤新田分水はその下流に平兵衛新田分水と戸倉新田分水を持つ、当時の国分寺村にとっては重要な用水でしたのでこれを止水することはできないので、どの様に砂川用水と統合するかが大きな課題だったのでしょう。砂川用水と交差するあたりで地中にトンネル(胎内堀)を作ったものと考えられます。その胎内彫りの跡は現在も残る重要な遺構です。
また、大正期には地図中央の赤丸部分の戸倉新田分水の延長が計られ、恋ヶ窪村分水とつながることになります。
昭和40年、それまで国分寺村の経済や生活を支えてきたこうした水路が、水道の普及、農地の宅地化などにより、水路利用の必要性が低くなり用水組合が解散されます。その後、用水は次々と姿を消し、今は砂川用水と呼ばれているかつての野中新田分水の南側水路のみが多摩川の水の流れる水路として残るだけとなりました。
posted by m.ono at 21:50| 砂川用水物語 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年10月12日

用水のおかげで今の国分寺市の基盤が確立した

この表は、用水がどれほど国分寺の経済を支えてきたかを理解できるものです。
徳川幕府は12,000石の租税を新田開発から期待していたということです。

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国分寺に用水が敷設される以前は湧水で農業生産していたようですが、国分寺旧村2村(国分寺村と恋ヶ窪村))の納税高は158石でした。その後、国分寺用水開設(1657年)後、新田開発のための用水敷設(1729年)後と大幅に増収に向かい、多くの水路が敷設されて7年後の元文検地では1,914石にまで増加したのです。
新田開発は武蔵国の多摩郡(国分寺はここに属する)、入間郡、新座郡,高麗郡の82ヶ村で行われ、幕府が租税予算として新田開発石高12,600石あまりを期待したものでしたが、国分寺は元文元年の検地では1,914石の租税を納めており、幕府期待の納税分の15%を新田開発に寄与した8ヶ村で納めたことになります。ですから成績優秀な我がまち国分寺であったことが分かります。これも、分水が引かれその水で生活が出来たおかげなのです。しかも新田で生産された石高は、元文元年検地では、国分寺旧村(国分寺村、恋ヶ窪村)の国分寺崖線下集落が711石であるのに対し、新田開発された村々の総石高1203石という大幅な生産高の開きが出たのです。国分寺市が想定している江戸期の平均石高を見ても、新田開発が今の国分寺市が誕生する前から国分寺の経済を拡大させ、基盤を作ってきたことが明らかな数字です。これも用水があり、先人たちのたゆまぬ努力があったおかげと言えるでしょう。
posted by 佐藤敬臣 at 14:35| 砂川用水物語 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

国分寺の用水路

国分寺市が国分寺村であった頃には何本もの分水が流れ、まさに水の豊かな生活空間がありました。初めての分水として野中新田分水が国分寺に流れて、今年で288年が経ちます。
しかし、昭和40年ごろと言われていますが、こうした用水を守り管理する用水組合が解散し、用水の使命がなくなり、それと共に多くの分水は止水され、今も市内に流れる用水路は野中新田分水(現砂川用水)のみとなりました。

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posted by 佐藤敬臣 at 13:59| 砂川用水物語 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

新田開発に必要な用水路

1722年(享保7年)7月26日江戸幕府は日本橋に新田開発を奨励する高札を立てました。早速10月ごろから江戸牛込や現国分寺市に近い上谷保から新田開発の願書がだされ、10月8日に野中新田開発の願書が提出されています。こうした中、1723年(享保8年)5月4日北町奉行中山時春・南町奉行大岡忠相によって武蔵野台地新田開発の具体的方針がだされました。翌年には野中新田の地割渡しが始まっていますから、土地の開墾はこのころ開始されたのではないでしょうか。
しかし村としての組織が出来上がるのは、鳳林院の境内確定(1725年4月ただし創建は1713年)や愛宕神社の創設(1725年4月~6月ごろ)、妙法寺(詳細不明)、神明社(1725年勧進)を待たねばなりませんでした。
1723年6月に榎戸新田の開発が始まり、新田の開墾作業は急ピッチで進んだようです。その時の武蔵野台地は荒れ野であり、飲み水は玉川川上水か国分寺用水(現在の府中街道近くを流れていました)のみだったのではないでしょうか。これらの用水は新田開発に携わる人々のためのものではなく、東西元町の対雨水でしょうから、各地からの出百姓はどのように生活していたか考えさせられます。おそらく生活基盤として定住するために必要な生活用水を手にすることができたのは1728年(享保13年)に野中新田分水設置の届け出がだされ、翌年4月に野中新田分水が開通した後ということになります。およそ開墾の4年間彼らは水をどこから入手したのか分かりませんが、大変大変な苦労をしたであろうことは、想像に難くありません。

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posted by 佐藤敬臣 at 13:17| 砂川用水物語 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年09月05日

新田開発政策の背景

過日、国分寺市学芸員の話を聞きました。それによると、新田開発は今でいう「財政再建」の手だてだった、それほど徳川幕府の財源はひっ迫していたそうです。その原因の多くは、第5代将軍綱吉(1680年~1709年)の時代の様々な災害に原因があったそうです。確かに歴史書には、1689年の元禄の大火、1703年の元禄地震(これにより江戸城が崩壊)、1704年の浅間山噴火、諸国の洪水、1707年富士山の噴火と地震と立て続けに災害が襲ったのです。短命に終わった6代将軍家宣(1709年~1712年)も必死に災害の復旧にあたったのでしょうが、新田開発を推進した8代将軍吉宗の時代にまでその余波が及び、江戸城修復のみでなく広く被害を受けた各藩への支援も行い財政は底をついていたとのことです。とりわけ「大奥」にかかる経費の増大もあったそうです。
そこで、吉宗は内では大奥の縮小を図りつつ、徳川3大改革と言われている「享保の改革」に乗り出し、その重要な経済政策として新田開発に着手したのです。この重要な施策を成功させるために吉宗は、当時町奉行であった大岡忠相(あの大岡越前守です)を将軍直属の関東地方御用掛として徴用したのです。この抜擢は、異例であり、吉宗と大岡の緊密な関係が手に取るようです。何かうれしくなりませんか。あの庶民の味方大岡越前守が幕府から信頼され、私たちの町国分寺の新田開発に絡んでいたんです。

新田開発を奨励する高札が日本橋の建てられたのは享保7年(1722年)7月26日のことでした。
当時南町奉行であった大岡忠相は、北町奉行とともにこの奨励の具体的な開発計画を作成し、翌8年(1723年)5月4日に武蔵野台地開発の具体的な方針を各村に示しました。
これに先立つ享保7年10月5日には上谷保村から武蔵野新田開発願書が出ているわけですから、大岡達もおそらく、新田開発の気運の高まりに応えるべく、開発計画作成にも熱の入ったことでしょう。
ちなみに、上谷保村の新田開発は冥加金として250両を幕府に出金し(享保8年6月)、開発地の承認を得たということです。
posted by m.ono at 22:13| 砂川用水物語 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年09月03日

新田開発以前の武蔵野の情景

いまから遠い昔,西行法師(1118~1190)が武蔵野国を訪れたときの絵図が「新編武蔵野国風土記稿・名勝図会」に”西行法師武蔵野にて仙人に会う図”として描かれています。この絵のキャプションには「新田開発がなされる前の武蔵野、たぶん国分寺周辺は’なにもないすすきの野原’だったのでしょう」と書かれています。いつの時代か分かりませんが、武蔵野の原野の写真が「国分寺のあゆみ」に載っています。枯れかけた草、その先の雑木林。この写真を見ても、やはり武蔵野は国木田独歩が表現しているように荒れ野と雑木林の連続する日本に数少ない情景だったのでしょう。
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徳川時代の寛延元年(1748年)国分寺市周辺の武蔵野は尾張藩の鷹場に編入されました。その時点では、国分寺の新田開発はすでに着手されていました。考えてみれば、鷹場とは鷹の訓練や鷹狩りをしていた場所ですから、鷹が獲物の動物を鷹が見つけやすい草の原で、おそらく雑木林もまばらだったのでしょう。しかもこの地は関東ローム層が地表を覆い、田んぼはできず、水はすぐ浸透し畑作にも適した土壌ではなく、開墾にあたった先人は大変な苦労をして、土壌改良を行ったことでしょう。ことによると国木田独歩が見た雑木林は、土壌改良のための堆肥を作り出すのに必要な枯れ葉から腐葉土を作り出すために、先人が作り上げた雑木林だったのだろう、と想いを馳せると、今わずかに残る雑木林がいとおしくなります。
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こうした草原を時の幕府(徳川吉宗)が町奉行大岡忠相に新田開発適地として開墾を命じたのがいわゆる新田開発の始まりです。
posted by m.ono at 21:24| 砂川用水物語 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする