2020年02月27日

玉川上水&分水網遺構100選ウォーク(第4回)

「玉川上水・分水網を生かした水循環都市東京連絡会」が「市民が選んだ玉川上水と分水網の関連遺構100選」として2020年1月のシンポジウムで正式に選定された地点を実際に歩いています。2月27日の第4回は、西武多摩湖線のところの桜橋から玉川上水に沿って下流へ歩きました。今回のルートです。

① 八左衛門橋と稲荷神社
桜橋のすぐ下流に八左衛門橋があります。『八左衛門橋』の名称は、旧小川新田組頭の滝島八左衛門が架けたことによるものです。詳しくはこちらをご覧ください。
八左衛門橋のところ、五日市街道を挟んで南側に稲荷神社があります。こちらは現在小平市上水南町ですが、以前は、野中新田の飛地であり、堀端野中と呼ばれていました。元文元年(1736)に、堀端野中の鎮守の社として、勧請遷祀されたと伝えられています。
稲荷神社の境内に砂川用水が流れています。国分寺を流れる砂川用水は、小平市に入って、この境内を抜けたところで、殆どの流れが下水に流れ込み、事実上の終点になってしまっています。
砂川用水は、歩いた日は工事のため、水は流れていませんでした。写真は流れている日のものです。

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参考資料:
玉川上水(小平シニアネットクラブ)

② 新堀用水と鈴木用水の水門
新堀用水は、八左衛門橋のところで北側に斜めに折れ、再び開渠になります。玉川上水から少し離れた位置を喜平橋近くまで平行に流れます。
開渠になったところ。カモが用水の中を泳いでいました。

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山家橋と喜平橋の中間あたりに鈴木用水の分岐門があります。鈴木用水はここで北側に分かれ、国交大通りのところで暗渠になりますが、鈴木街道の方に流れて行きます。新堀用水の水は、この分岐から殆どの量が鈴木用水側に流れています。
鈴木用水は、今回の主題ではないので、詳しくは下の参考資料をご覧ください。

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参考資料:
【鈴木用水    (川のプロムナード)】
【鈴木用水  (1)(2)(3)  (東京の水 2009 fragments)】

ここからは、国交大通りから喜平町桜通りを通って喜平橋に出ます。喜平橋の橋名は、小平の新田開発の1つである堀野中新田の組頭であった喜兵衛さんの家のそばにあった橋ということから、喜兵衛橋という名が付いたそうです。現在は喜兵衛を喜平と変えて呼ばれています。橋の下流側歩道には、案内板があり、休憩するベンチなどもあり、ちょっとした広場になっています。
ここから玉川上水に沿って北側を歩き、次の小桜橋を南側に渡ります。

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③ 高杉水車と「ほっこぬき」【100選】
砂川用水は、玉川上水の南側を上水に平行に流れていました。
砂川用水は、小桜橋と茜橋の中程で地下に潜ります。丁度このあたりに「高杉水車」があったと思われます。高杉水車は、精米・精麦用で、砂川用水本流に直接仕掛けられ、南側に「く」の字型に余水や水車を止めるときに流す水路があったそうです。砂川用水がこの先しばらくの間、暗渠となっているのは、この水車の排水を「ほっこぬき」で流した名残とのことです。 ここには、現在も高杉商店があります。
さらに下流に歩いて、茜屋橋の南の新小金井街道を渡ると空地があります。その一角に、用水が見える開口部があります。これは、用水の泥上げなどをした作業用の穴です。空地の隣の農家のご主人に話を聞くことができました。昔はこのような穴が所々にあったが、水が流れなくなってから、不要だし、危険だということで、多くは塞がれてしまった、とのことでした。
新小金井街道から約200mのところで、用水は再び開渠になります。
茜屋橋の橋名は、以前この一帯で盛んに栽培されていた「茜草」(染料)の元締めの島田家を「茜屋」と呼んでいたことからだそうです。

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参考資料:
玉川上水ワンポイントガイド(No.6水車)】 【ほっこぬき(ちむくい)

④ 旧小金井分水口と小金井分水の水門【100選】
ここからさらに100m程行くと、玉川上水の脇から南東に斜めに行く道があります。ここに、江戸時代の小金井分水の取水口があったそうです。そして分水はこの道に沿って流れていました。ところが、明治3年(1870)に、玉川上水の通船が開始される時に、各分水が砂川用水から分水されるように統一され、この取水口は廃止されました。
この道を少し行くと、砂川用水があり、そこに小金井分水の水門の遺構があります。ここに説明板がありました。

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⑤ 名勝小金井桜の中心地【100選】
玉川上水に戻って、この先の貫井橋を渡ります。
玉川上水の北側の歩道を歩いて、小金井橋の手前に名勝小金井桜の碑があります。
小金井桜は、元文2年(1737)頃、八代将軍徳川吉宗の時代、幕府の命により川崎平右衛門が、大和の吉野や常陸の桜川など各地の桜の名所から種苗を取り寄せ、小金井橋を中心に玉川上水両岸の6kmにわたり植えたものです。
詳しい説明は、現地に説明板がありましたので、これをお読みください。下に参考の資料もリンクしてあります。

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参考資料:
小金井桜(武蔵野ヒストリー)】 【小金井桜(多摩めぐりの会)
小金井桜花の絵(武蔵名勝図会)

⑥ 海岸寺と小金井桜樹碑
小金井橋の少し上流側の五日市街道を北に渡ったところに海岸寺があり、その入口のところに小金井桜樹碑があります。
この碑文は、江戸時代の漢学者大久保忠休(狭南)が書いたもので、文化7年(1810)、門人等によりに建立されたそうです。小金井桜を植えた川崎平右衛門の業績を称えるとともに、桜の効用として、根が張り堤が崩れるのを防ぐ、春は花が人々の目を楽しませ、夏は街道の木陰になる、玉川上水を清潔に保ち、桜の花びら等が水毒を消すなどと記されています。
海岸寺は、この地の農民の熱心な要望により、元文元年(1936)、越中国泰寺の末寺で秩父郡三峰山の境内にあった海岸寺を引寺したものだそうです。
海岸寺山門は、天明3年(1783)頃、鈴木新田の大工の家に寄寓していた渡り大工が作ったものと言われています。鎌倉時代の禅宗様の建築様式が取り入れられており、小平市の有形文化財に指定されています。

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参考資料:
拓本「小金井櫻樹碑文」(小金井市・小金井桜のあゆみ(1))
海岸寺と小金井桜碑(小平シニアネットクラブ)

⑦ 行幸の松
玉川上水の歩道に戻って、小金井橋の手前に行幸の松とその碑があります。
明治天皇が観桜においでになった名誉を後世に伝えるために、地元鈴木新田の有志が御座所跡に植えたものだそうです。

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⑧ 小金井橋【100選】
小金井街道に架かる橋が小金井橋です。
南岸の下流側に説明のプレートがあり、歴史が詳しく述べられています。これによると、小金井橋の歴史は古く、承応2年(1653)、玉川上水が開かれた時に架けられたと思われるとあります。小金井堤が桜の名所になると、多くの絵画や写真の題材となっています。
昭和5年(1930)に近代的なレンガ造のアーチ橋に架け替えられましたが、平成20年(2008)、都道拡幅により撤去され、レンガと要石の一部がモニュメントとして残されています。
モニュメントの脇に小さな水神の祠があります。

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下は、小金井橋の上から下流を見たものです。左側の護岸の太い樹木が伐採され、ヤマザクラの苗木の補植が進められています。

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左岸の歩道を少し行くと、「御成の松跡」の説明板があります。天保15年(1844)、第13代将軍家定一行が花見に訪れた際、御座所を設けた場所に、里人が1本の黒松を植え「御成の松」と呼ばれたそうですが、平成6年(1994)に松喰虫の被害で枯れてしまい、伐採されたとのことです。現在同じ場所に松が植えられていますが、2代目でしょうか。

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陣屋橋に向かう途中の歩道です。歩道と玉川上水の間にヤマザクラの補植が進められています。

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⑨ 陣屋橋と陣屋跡
小金井公園の江戸東京たてもの園の入口のところに架かるのが陣屋橋です。

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江戸時代、近くに南武蔵野新田開発のための陣屋が置かれ、川崎平右衛門の手代の高木三郎兵衛が常駐していたとのことです。
陣屋があった場所は、たてもの園入口の道を入り、関野通りを右折した左手あたりにあったらしいのですが、今は全く痕跡がありません。当時は三方に土塁を築き、北側に用水堀(関野用水)や掘り抜き井戸もあったといわれています。

小金井公園に入って休憩です。
梅まつりに合わせて、売店「そば茶屋さくら」がリニューアルオープンしました。
梅まつりは終わりましたが、まだ梅はきれいに咲いています。

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⑩ 真蔵院・川崎平右衛門供養塔
小金井公園の正面入口の道から関野通りを西に少し入ったところに真蔵院があります。
その境内に川崎平右衛門供養塔があります。寛政7年(1795)に近隣の7新田(関野新田・鈴木新田・廻田新田・貫井新田・是政新田・小金井新田・田無新田)の農民が、川崎平右衛門の遺徳を偲んで建立したものです。
供養塔の正面に平右衛門の戒名が彫られており、左右側面には「願主および発起人」が書かれています。また、平右衛門の偉業の説明が掲示されています。
真蔵院の外の塀のところに説明板がありました。

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小金井公園正門のところから玉川上水に戻ります。
玉川上水と左岸の歩道の間のヤマザクラは平成25年に植えられたもので、だいぶ大きくなっています。

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⑪ 桜樹接種碑
関野橋から30mほど下った左岸には山型をした自然石の「桜樹接種碑」があります。嘉永4年(1851)3月に、田無村の名主下田半兵衛が建立したもので、正面には「さくら折るべからず 槐字道人」と彫られています。槐字道人とは下田半兵衛のことです。
小金井桜が植えられて100年余りが経ち、老木化が進んだので、嘉永4年(1851)、代官大熊善太郎が近隣の村むらに命じ、補植が行われました。裏面には「桜樹接種記」と題して、そのいきさつが記されています。

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参考資料:
関野橋と桜樹接種碑(庄司徳治コレクションより)
下田半兵衛・4(苗字のルーツは日本の歴史)

⑫ 旧千川上水分水口跡
左岸をさらに下って、あけぼの橋の少し手前に旧千川上水分水口跡があります。
千川上水の分水口は、開発された元禄9年(1696)以降、何度かその場所を変えていますが、明治4年(1871)から昭和41年(1966)まで、ここにありました。
現在の取水口は、境橋の交差点の玉川上水下流左岸の境水衛所跡のところにあります。
分水口から取り込んだ水は、五日市街道下り線の道路下に埋められたヒュ-ム管を伝わって境橋開口部に流れていたとのことです。
旧千川上水分水口跡の50mほど上流に、もう一つ取水口の跡があります。千川水道株式会社が、明治13年(1880)に増設し、明治40年(1907)まで使用されたものだそうです。下の最後の写真です。

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参考資料:
旧千川上水取水口跡(武蔵境散歩道)
千川水道(株)千川上水取水口跡(武蔵境散歩道)

⑬ 名勝小金井桜境石【100選】
境橋の上流側の両岸に名勝小金井桜の境界を示す石柱があります。
前回歩いた小川水衛所跡のところの両岸に西の境界石がありました。こちらは東の境界です。全く目立たず、ひっそりとありますが、健在でうれしいです。
いわれについては、こちらに述べられています。

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⑭ 境水衛所跡
境橋の下流側には境水衛所跡があります。
ここは、江戸時代には水番所として水番人が常駐して、玉川上水の管理をおこなっていました。明治維新後は、水衛所として、淀橋浄水場が廃止され玉川上水の通水が停止するまで、運用されていたとのことです。
水衛所の柵の下流側に現在の千川上水分水口があります。

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参考資料:
境水衛所跡(庄司徳治コレクションより)
境水衛所跡地と千川上水(武蔵野市観光機構)

ここから境橋バス停に戻り、今回のウォークのゴールです。