2018年01月25日

砂川用水美化作業中止のお知らせ

22日に降った大雪の影響で、並木公民館脇の用水にはまだ沢山の積雪があります。
そのため、1月27日に予定していた作業は中止になりました。
次回は、2/5(月)、作業場所は「並木公民館」です。
2/10(土)、作業場所は「ヤマモモ公園」です。
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2018年01月24日

砂川用水物語(水路の変遷)

砂川用水物語を纏めて4編お届けします。
posted by m.ono at 22:15| 砂川用水物語 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

水路の変遷1 ~江戸初期の国分寺の湧水の状況~

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江戸初期の国分寺村に関する史料はないようです。この地図にある水色の線は、国分寺崖線から流れ出ている湧水の流れです。
崖線の下にある姿見の池は、古くからある湧水による池でした。エックス山からも湧水が湧き出していました。日立中央研究所の大池のあたりは、大正7年に今村銀行頭取今村繁三氏の別荘になるまでは、湧水が作り出した沼地であったようで、今でも大池には随所から湧き出た清水が注いでいます。
また、現在の国分寺の裏手や国分寺歴史資料館のある崖線からも清水が湧き出ており、真姿の池湧水群と呼ばれるお鷹の道沿いの湧水もあり、これら湧水は野川となって多摩川まで約20㎞を流れ下っています。
新田開発以前にはこの流れ一帯には豊富な湧水を使った田んぼが作られていたようです。
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水路の変遷2 ~国分寺に初めて用水が引かれる~

徳川幕府の新田開発奨励(1722年:享保7年)よりはるか以前の1657年(明暦3年)に、田用水として当時の国分寺村・恋ヶ窪村・貫井村(小金井市)3村に用水が引かれました。
それ以前、いつからか、国分寺崖線沿に多くあった湧水が崖線下に田んぼに適した土地を作りだし、何らかの形で稲作が行われていたのでしょう。しかし自然に依存している稲作でしたので、渇水期もあり、また湧水の温度が低く思うようには稲が収穫できなかったのでしょう。
先の3村が幕府に玉川上水から用水を引く計画を要望し、それが認められ、田んぼに引く水として「国分寺用水」「恋ヶ窪用水」「貫井用水」を村民挙げて開削したのです。

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玉川上水からの用水路取り入れ口は現在のところ正確には断定できないのですが、府中街道久右衛門橋上流から導水され、現在の府中街道脇を南に下り、恋ヶ窪交差点から連雀通り沿いに貫井村用水が開削され、恋ヶ窪村用水は、孫の湯通りに入ってすぐ南下し府中街道の東側を流れ、流末は姿見の池に合流したようです。
さらに、国分寺村用水は孫の湯通りに入って通り沿いを流れ、現在の日立中央研究所の東の道路沿いを南に下り、花沢橋のあたりをさらに南に下りまっすぐ野川に合流したようです。
この用水のお陰で、米作は大幅に増収となり、“国分寺市の今昔”にはよれば、恋ヶ窪・国分寺村の年貢は158石(俵約60俵相当)であったものが、用水開削後は約3倍の462石になったということです。
東元町にお住いの本多克己氏の昭和16年当時を回想したスケッチにも、国分寺崖線沿いにある東福寺や姿見の池周辺、野川沿いの現西元町~南町周辺は田んぼだったのです。(下の絵の緑色部分が田圃だったところです)。このような田園風景は国分寺の原風景です。

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国分寺のまちはこうして崖線下を中心に江戸時代発展を続けてきました。
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水路の変遷3 ~新田開発が始まる~

お江戸日本橋に幕府の新田開発奨励の高札がたてられたのは、享保7年(1722年)7月26日です。
徳川綱吉の時代(1680年~1709年)の28年間に元禄地震(1703年)宝永地震(1707年)とM8クラスの地震が相次ぎ、小田原の壊滅、江戸城の一部など多大な被害が発生し、天和の大火(1698年)による江戸の広い範囲の消失などが相次ぎ、その救済、復旧、復興のため幕府の供出金は膨大になり、江戸幕府は財政的にひっ迫していたようです。
江戸の人口も慶長14年(1609年)に江戸を訪れたロドリゴ・デ・ビベロは15万人と伝えていますが、1722年には520,000人を超し、大岡越前によれば毎年1万人程度(江戸人口の2%)の伸びと予想されていたようです。
財政ひっ迫と人口増加により幕府としては当時の貨幣制度である米石を増やす必要があり、コメの増収は必須なものであった思われます。幕府は武蔵野新田開発により12,000石の年貢を期待していたと国分寺のあゆみに記載されています。
幕府の奨励を受けて、3か月後の10月8日に野中新田開発の願書が提出され、享保14年(1729年)に野中新田分水が完成。同時期に中藤新田分水、翌年戸倉新田分水、享保17年(1732年)平兵衛新田分水と続々と分水が引かれたようです。 

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当時の国分寺の用水路はすべて玉川上水から直接導水されたのです。
用水は作られた後、玉川上水からの取り入れ口の付け替えなどがありこの地図通りではありませんが、ミズモリ団、美しい用水の会のメンバーが水路跡を観察しこの地図を作成しました。
こうした取り入れ口の変更は、その都度代官に報告され、どの様に改修するかを文書として名主が提出し、その開削作業は新田開発に携わった農家(当時は出百姓と言っていましたが)の方が行ったようです。
大変な苦労の末、飲み水・生活用水を確保していたのです。
posted by m.ono at 21:58| 砂川用水物語 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

水路の変遷4 ~そして、戦後の用水路~

新田開発奨励後用水がどの場所を流れていたかは、用水の跡地をこまめに追って調べるしかありませんが、ここで利用している昭和29年に行われた地番決定の地図に水路が画かれています。

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用水は明治3年大きな変化を迎えます。それまで玉川上水から直接導水していた中藤新田分水、野中新田分水、国分寺村分水が統合され、すべて砂川用水から導水することになりました。その際に問題になったのが、地図の左上に赤丸で囲った中藤新田分水でした。
中藤新田分水はその下流に平兵衛新田分水と戸倉新田分水を持つ、当時の国分寺村にとっては重要な用水でしたのでこれを止水することはできないので、どの様に砂川用水と統合するかが大きな課題だったのでしょう。砂川用水と交差するあたりで地中にトンネル(胎内堀)を作ったものと考えられます。その胎内彫りの跡は現在も残る重要な遺構です。
また、大正期には地図中央の赤丸部分の戸倉新田分水の延長が計られ、恋ヶ窪村分水とつながることになります。
昭和40年、それまで国分寺村の経済や生活を支えてきたこうした水路が、水道の普及、農地の宅地化などにより、水路利用の必要性が低くなり用水組合が解散されます。その後、用水は次々と姿を消し、今は砂川用水と呼ばれているかつての野中新田分水の南側水路のみが多摩川の水の流れる水路として残るだけとなりました。
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2018年01月23日

雪の砂川用水

22日は関東地方は大雪でした。国分寺市も大雪警報が発令されて、20cm以上積もりました。
写真は、一夜明けた23日の朝7時頃の砂川用水の様子です。
雪景色が綺麗でした。

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posted by m.ono at 23:20| 日々の砂川用水 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年01月02日

新年のご挨拶&年明けの作業日程

1日過ぎましたが、明けましておめでとうございます。
砂川用水は、元旦の昨日も水量豊富に流れていました。
当たり前のことに思われますが、この流れを維持するためには、不断の美化活動が必要です。
今年も、よろしくお願い致します。継続は力なりです。
年明けの最初の作業日は、1月27日(土)です。詳細は後日お知らせします。

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