2017年09月25日

全国都市緑化はちおうじフェア

第34回全国都市緑化はちおうじフェアに国分寺市が出展し、取組を紹介しました。
我々の仲間も、国分寺市のブースで、砂川用水の紹介や水車の展示でお手伝いしました。、
多くのお客様が関心を寄せていました。
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posted by m.ono at 18:17| 諸々の活動日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年09月24日

美化作業(並木公民館前)

9月23日(土)の作業の報告です。
水路に石板と砂利を敷いた結果、上に積もった泥は、竹ほうきで簡単に除去できるようになりました。良い具合です。
9月14日に国分寺市の協力を得て用水の流底の高さの測量を行いました。
その結果をもとに、流れの改良について意見交換をしました。
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posted by m.ono at 07:46| 美化活動作業日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年09月18日

小平市上水中学の北側の用水

再び小平市の上水中学の北側の用水です。台風の後だからか、水が流れていました。
彼岸花が綺麗でした。
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posted by m.ono at 09:28| 日々の砂川用水 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年09月09日

おたカフェでミニコンサート

番外編です。
美しい用水の会のメンバーで、工芸の専門家(美化作業で赤いTシャツを着ている彼です)である彼は、手作りの工芸的水車を、土日に武蔵国分寺近くの「おたカフェ」の前の用水で回しています。
そのおたカフェは、10月末まで土日の営業を19時までにしたとかで、さらに多くの人に足を運んでもらおうと、色々イベントを企画しているそうです。
今日はその第1弾。リコーダーとチェロのミニコンサートが行われました。
そこで彼は、店の外で、水車を回してコラボしました。
外では、水車の回る音や風の音。店内では、食器を洗う音や子供の声まで。色々な音の中で、リラックスした楽しいコンサートでした。
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posted by m.ono at 20:55| 諸々の活動日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

美化作業(並木公民館前)

並木公民館前の用水の親水化のための第一歩として、試験的に水路の一部に砂利を敷き、
石板を置く作業をしました。
作業前に上流を土嚢でせき止め、試験する部分の泥をあげました。
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比較的大粒の砂利を水路の底に敷き、その上に石板を置きました。
さらに上から、少し細かい砂利をまいて滑り止めとします。
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流れがきれいになり、良い具合になりました。(下流部分)
しばらく様子を見ます。効果が見られたら、範囲を拡大してゆきます。
posted by m.ono at 15:31| 美化活動作業日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年09月05日

新田開発政策の背景

過日、国分寺市学芸員の話を聞きました。それによると、新田開発は今でいう「財政再建」の手だてだった、それほど徳川幕府の財源はひっ迫していたそうです。その原因の多くは、第5代将軍綱吉(1680年~1709年)の時代の様々な災害に原因があったそうです。確かに歴史書には、1689年の元禄の大火、1703年の元禄地震(これにより江戸城が崩壊)、1704年の浅間山噴火、諸国の洪水、1707年富士山の噴火と地震と立て続けに災害が襲ったのです。短命に終わった6代将軍家宣(1709年~1712年)も必死に災害の復旧にあたったのでしょうが、新田開発を推進した8代将軍吉宗の時代にまでその余波が及び、江戸城修復のみでなく広く被害を受けた各藩への支援も行い財政は底をついていたとのことです。とりわけ「大奥」にかかる経費の増大もあったそうです。
そこで、吉宗は内では大奥の縮小を図りつつ、徳川3大改革と言われている「享保の改革」に乗り出し、その重要な経済政策として新田開発に着手したのです。この重要な施策を成功させるために吉宗は、当時町奉行であった大岡忠相(あの大岡越前守です)を将軍直属の関東地方御用掛として徴用したのです。この抜擢は、異例であり、吉宗と大岡の緊密な関係が手に取るようです。何かうれしくなりませんか。あの庶民の味方大岡越前守が幕府から信頼され、私たちの町国分寺の新田開発に絡んでいたんです。

新田開発を奨励する高札が日本橋の建てられたのは享保7年(1722年)7月26日のことでした。
当時南町奉行であった大岡忠相は、北町奉行とともにこの奨励の具体的な開発計画を作成し、翌8年(1723年)5月4日に武蔵野台地開発の具体的な方針を各村に示しました。
これに先立つ享保7年10月5日には上谷保村から武蔵野新田開発願書が出ているわけですから、大岡達もおそらく、新田開発の気運の高まりに応えるべく、開発計画作成にも熱の入ったことでしょう。
ちなみに、上谷保村の新田開発は冥加金として250両を幕府に出金し(享保8年6月)、開発地の承認を得たということです。
posted by m.ono at 22:13| 砂川用水物語 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年09月04日

美化作業(並木公民館前)

作業前に並木公民館前の用水の親水化のために流れを改良する方策について検討しました。
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上流側の水路は草で水路が見えない状態でした。作業後には、流れが見えて、すっきりしました。
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下流側の護岸の草刈りもしました。
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posted by m.ono at 22:21| 美化活動作業日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年09月03日

新田開発以前の武蔵野の情景

いまから遠い昔,西行法師(1118~1190)が武蔵野国を訪れたときの絵図が「新編武蔵野国風土記稿・名勝図会」に”西行法師武蔵野にて仙人に会う図”として描かれています。この絵のキャプションには「新田開発がなされる前の武蔵野、たぶん国分寺周辺は’なにもないすすきの野原’だったのでしょう」と書かれています。いつの時代か分かりませんが、武蔵野の原野の写真が「国分寺のあゆみ」に載っています。枯れかけた草、その先の雑木林。この写真を見ても、やはり武蔵野は国木田独歩が表現しているように荒れ野と雑木林の連続する日本に数少ない情景だったのでしょう。
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徳川時代の寛延元年(1748年)国分寺市周辺の武蔵野は尾張藩の鷹場に編入されました。その時点では、国分寺の新田開発はすでに着手されていました。考えてみれば、鷹場とは鷹の訓練や鷹狩りをしていた場所ですから、鷹が獲物の動物を鷹が見つけやすい草の原で、おそらく雑木林もまばらだったのでしょう。しかもこの地は関東ローム層が地表を覆い、田んぼはできず、水はすぐ浸透し畑作にも適した土壌ではなく、開墾にあたった先人は大変な苦労をして、土壌改良を行ったことでしょう。ことによると国木田独歩が見た雑木林は、土壌改良のための堆肥を作り出すのに必要な枯れ葉から腐葉土を作り出すために、先人が作り上げた雑木林だったのだろう、と想いを馳せると、今わずかに残る雑木林がいとおしくなります。
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こうした草原を時の幕府(徳川吉宗)が町奉行大岡忠相に新田開発適地として開墾を命じたのがいわゆる新田開発の始まりです。
posted by m.ono at 21:24| 砂川用水物語 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

砂川用水止水のお知らせ

砂川用水(旧野中新田分水)止水のお知らせ
 砂川用水は最下流部の護岸補強と高木の伐採のため9月25日から10月4日まで止水します。
このように砂川用水は立川部分、国分寺部分を問わず、護岸の整備や隣接地の整備のため流れを工事期間中は止めることになっています。止水の作業は、立川・昭島市境の取水口を閉じることになっています。
posted by m.ono at 20:38| 連絡・お知らせ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする